こんにちは。
こないだの最後、「資質・能力の3つの柱」と、いきなり挙げていましたが、いい加減、文章が長くなってて、説明は、まぁいいか、と、中途半端に終えたわけです。
しかし、そういうの、あかんやないですか。ちゃんと書かないと。それで、ここでお話したいと思います。
これはたしか、2017年告示の幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要領に、「育みたい資質・能力」として示されていたように覚えています。
そして、その資質と能力は、「知識及び技能の基礎」「思考力,判断力,表現力等の基礎」「学びに向かう力,人間性等」という3つの柱で成り立っている、ということのようです。
それで、ここからが、私の勝手な解釈です。
「知識及び技能の基礎」についてです。
これは、文字を覚えることや計算ができるようになることではなく、例えば、散歩して、そこここに咲く花のうつろいに季節を感じる、といった、「あれっ、ひまわりの顔が、へなへなになってる、なんで」のような、「気づき」に興味を育むことかな、と、思います。
「思考力、判断力、表現力等の基礎」についてです。
季節の変化を咲く花の違いと関連づけることのように、「気づき」があって、そこから、例えば、他にはどんな花が咲いているか、その周りには、どんな虫がいて、その生き物も、季節によって出会えたり出会えなかったりがある。それは「なぜだろう」と知りたくなり、尋ねたり、本で探したり、そうして、わかったこと、わかった、とは、「気づき」を得た、ということですが、その「気づき」を伝えたくて、他者に表出する。このように、面白い、と、感じたことを、「試し続ける」こと、面白い、と、感じたことを、他者にお話ししたくなること、このようにとらえてもいいのではないか、と思います。
「学びに向かう力、人間性等」についてです。
これは、この「試し続ける」ことが面白くなって、かつ、その対象、先の例だと、花から昆虫へ、と、広がることによって、この面白い体験を他者とも共有して、お互いにいろいろ教えあって、互いを認めあって、自分の能力や興味を追求すること、とも思います。
このようにとらえると、「知識及び技能の基礎」は「気づく」こと、「思考力、判断力、表現力の基礎」は「試し続ける」こと、「学びに向かう力、人間性等」は気づいて試して、気づいて試して、の繰り返しの中で、自分の能力や興味を育み、自分の生き方を作る過程ということもできますでしょう。
そうすると、私としては、まず、「気づく」ことが、資質と能力を育む最初の一歩、と、思いたいわけです。
さて、ここからが本題で、ここからが私には大事な話になります。
「気づき」を経験できるためには、何が必要か、ということです。
先の例で言うと、散歩に出かけても「いい」、花に近づいても「いい」、虫を探しても「いい」。「いい」が保障されていること、この「いい」という許可が「気づき」に必要、と、私は思います。
んで、「いい」って、誰がこどもに言うてくれるのか。もちろん、親や先生、と呼ばれる立場のひとです。確かに、何でもかんでも「いい」ではありませんが、何ならばいい、何をどうするならいい、これはどうしてもいいとは思わない、と意見を言う、つまり、これら、みな、気づきを与えるところでは同じです。
それで、こどもにしてみれば、自分が面白い、と、感じた活動について、それに取り組むことを、「いいよ」と、おとなが許してくれる。このときの安心感が「気づき」を保障し、「試し続ける」楽しさへとつながるんだと思います。
見守ってくれて、励ましてくれて、教えてくれて、考えてくれて、提案してくれて、こういう、おとながいること、それ以上に、こういうことを、面白いな、と、一緒になって追求してくれるおとながいる。このことが、こどもの資質と能力を育むのでしょう。
このとき、行っている活動について、おとなは、こどもが感じているであろうと同じく、面白さを感じている。また、こどもが面白い、と感じていること自体を、楽しい、と思う。
こどもは、おとなが面白い、と感じていること自体を、楽しい、と思う。
このように、ひとつの活動を、身体を通して、ともに行い、互いの行いを認めあい、学びあい、互いの感情をひろいあうことができる。
この、自分の身でもって他者の感情をひろい、これがひととひととで交流していること。
これを「愛着」と呼ぶなら、「愛着」のあることが「資質・能力の3つの柱」が存在することの前提となるでしょう。
愛着あっての学び、と、私は思っています。
まだまだ暑いですね。ちょっと、ふらふら出かけようか、お昼寝しようか、どうしよか。
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