こんにちは。
半年ほど、「ブログ」はそのままでした。ほっといたわけじゃないんです。
いいわけ、というか、経緯というか、ちょっと、ほかに書くことがあるからなんですが、ちょっと時間ができたので、つい先週、思ったことをお話しします。
ようやく桜も咲き始めた、こんなうららかなときにどうかですが、まあ、ちょっと。
「自分に死ぬ」という表現に触れました。初めて聞く言葉の組みあわせでした。
これを言ったひとは、その後も、話を続けてくれましたが、私は、その「自分に」の「に」に「?」となりまして、それで全体の話は聞き逃した、という始末です。
それで、その「に」について、私が考えたこと、というより、感覚的な思いつきです。
① 「が」の場合
現時点で、身体的にも精神的にも活動をしていて、それは今後も継続するであろうことを見越したうえで、その状況を想定して、前後のことをあれこれ具体的に考えている状態。
② 「は」の場合
この状態になることが、現実的に、かつ、時間的にもおおよそ遠くではないだろう、と、かなり可能な仮定をしたうえで、自分のことを考えている状態。
③ 「へ」の場合
身体的にも精神的にも活動をしていて、それはまだ続くことを見込んで、自分の感情や、思いや、考え、といった、自分のありよう、みたいなところに、どっぷりとつかることに、抵抗も感じる。自分で自分のことを、あまり好ましいと思っていない状態。
④ 「に」の場合
身体的にも精神的にも活動をしていて、それはまだまだ続くことを、かなり確実に考えているが、今までの自分の生きてきた道程や、今まで感じ、思い、考えてきたことや、行ってきたことを思い返すと、「しまった、こりゃだめだ」と反省して、このままだと、今までの自分にとらわれて終わりそうだ、なんとかしないと、と、これからの自分をどうにかせねばならない、と、前向きな状態。
それで、その「に」をお話しされた方は、どういう考えだったか。というか、なんで話を聞いていないのに、それが言えるかというと、内容を書いたものをもらったからで、こんな内容でした。
「に」は、これまでの自分を反省して、新しい自分になろうという、こと。
なので、まあ、私の感じと同じかな、と。
こんなことを考えていて、思い出したことがあります。
もう30年ぐらい前かもしれません。若い頃、通勤していた電車につってあった週刊誌の広告で、そのときの特集が「なぜ人を殺してはいけないか」でした。
野坂昭如さんの書いた題が、「お前も殺される」でした。
その文章は読んでません。しかし、当時の私は、「なるほど」と納得しました。
そうなんですが、でも、今、本当にそうだろうか、と、考えます。
もし、そう言われたとして、「嫌だ」とはっきり思うひとばかりではないと思います。
じゃあ、「野藤さんはどうなの?」と尋ねられたら、今の私は、死にたくないです。
「今の」って変でしょうが、やっぱり「今の」は必要なんです。
なんでかと言うと、「今の」私は、やりたいことがいろいろあるからで、やりたいことのなかに、「ほんとにやりたいこと」が含まれているからです。
「ほんとにやりたいこと、って、なんでわかるの?」と思われるでしょう。
これも私の感覚ですが、次のように思います。
「自分がしようと思うことのなかで、多少、ちょっとぐらい無理してでも、必要なお金を捻出してもよくて、もし、ほかになんにもしなくていいなら、それを、ずっとしていたいと思えて、そのことに関して、ひとからあれやこれや言われても、ちょっとは気にするけど、聞かなかったふりをして、やりたい」というのが、「ほんとにやりたいこと」。
んで、ここでひとつ大事なポイントがあって、「ひとからあれやこれや言われても」で、「あれやこれや」は別として、ざっくり言うと、話をしたり、相談したり、そんなときに、そこそこ素直な感情を見せても、否定したり、知らん顔をしないひとが周りにいてくれる、というところです。
なので、自分はひとりで生きてんのちゃうんやな、という、ときによっては面倒ですが、でも、さみしくない、という状況がある、ということです。
それは、「誰かのため」じゃなくて、まったく「自分のため」だけ。
だって、自分がさみしくないから、さみしいひとを思いやることができますから。
「さみしくない」というのは、自分の感情や思いや考えを、誰かに、話すことができて、ひとりであれこれ思いめぐらせるばかりではない、ということです。
それが、生身のひとでなくても、「このひとはどう思うんだろう」と、ちょっと、誰かを思い浮かべるだけでも、ほんのちょっとは、「さみしくない」自分を感じなくてすむ時間になるんじゃないか。
それで、「やりたいこと」って、いろいろあって、そのなかには、やらなくてはならないけど、まあ、嫌でもない、とか、できたら避けたいが、やってもいいか、と思える、ことも含まれるでしょうが、そういう「やりたいこと」って、どれもこれも、自分を表に出すことですね。
変な例えですが、まあ、時期的にいいでしょうよ、「鼻をかみたい。できたら、柔らかいティッシュで」というのも、「こうやって鼻をかむと、自分が爽やかだわ」という、自分の楽しさや、自分を大事にする気持ちを、表に出すことです。
だんだん暖かくなってきたんで、今朝、ゴキちゃんをやっつけるだんごの入ったものを、いくつか部屋に置きましたが、それも、私の「そのひとと出会わず、面倒なことが起きず、工夫のない一日を、穏やかな心で過ごしたい、という希望を満たそう」と「自分を愛する」がゆえの行為です。
どんなしょうもないことでもいいので、「ほんとに」までわからなくても、「やりたい」ことを、誰もが思いつくことができると、ありがたいと思います。
そして、たぶん、きっと、誰か、私をさみしくさせてくれない、とりあえず、話ができるひとがいる、と、信じて、そのひとを探すことも、「やりたいこと」に含めてもらえたら。
それで、昼にそばを食べたときに、七味を入れすぎてどえらいことになった、とか、そういう、どうでもいいことでも、「誰かにしゃべりたいな」と思う。
「誰かにしゃべりたいな」と思う気持ちを、たくさんのひとに持ってもらいたい。
そして、できるひとは、「話を聞くよ」、と、手を挙げる自分を表に出してもらいたい。
このことを、お願いしたい、です。
電車に飛び込んで、ほんとに止まるのは、時刻表じゃなくて、乗っていたひとの時間じゃなくて。
あとから見つかる「やりたい」こと、あとで見つかる「話を聞くよ」と手を挙げるひと。
安易かもしれないけれど、「は」も「が」も「へ」も「に」も考えないで、とりあえず、生きていればなんとかなる、今の私は、そう思って、暮らしています。
お母さんたちがあーでもないこーでもないとどうでもいいことを話しているのを見て、そういう姿が見れることをうれしくなります。コロナでそんな姿が見れなかったわけですから。色々あるけど、生きていたら何とかなりますよね。すごく共感しました。ありがとうございます。