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しばらくでございます。

執筆者の写真: Hiroyuki NotohHiroyuki Notoh

 こんにちは。


 昨年、クリスマスを迎える前にブログをあげてから、音沙汰なしに、寝そべってました。ので、たぶん、そのうち忘れられちゃうかも、と、思いつつ、違うとこに載せる文を書いてました。

 しかし、ありがとうございます。読んでるよー、って、教えてくださった方もおられて、こりゃ、ほっぽいてはいけない、と思ってはいました。けど、思ってただけで、別のことをしていたんです。

 んで、私、こどもの頃から気管支が弱いのですが、だいたいこの時期、それがまたやってきて、ここ数日、ぼわーん、としてるんで、別のはひとまず中断して、きゅーけーがてら、新しいブログを書かせていただきます。

 ほお、ほな、内容は、というと、実は、昨年の暮れに思ったことです。


 高校を受けるときに、その入試のテスト時間に目覚めて、勉強の成果を発揮できるようにするため、朝、早よ起きて勉強してました。確かに頭は冴えたような感じはありましたが、成績は、まあ、比例しません。

 そんとき、朝のラジオをなんとなく聞いてたんですが、なんかの昭和の演歌が流れた後、年の瀬は水商売の女のひとの自殺が増える。好きな男が家庭に戻るからだ、ということを、パーソナリティが言ってました。


 今の時代、こういう表現自体が問題になるでしょうね。


 中学生がこういう話を聞いて、まさか、ほんまか、盛り場で調べることもしませんので、事実は知りませんが、この話、以降、私にとどまって、年末恒例、必ず思い出すんですね。なぜか知らないけど、頭が冴えた時間に聞いてたから、記憶が確かなのかとも思いますし、なんだかとても大事なことだと感じたんでしょう。


 それで話は変わりますが、昨年の大晦日の夕、ショッピングセンターに行ったんですね。そこに、椅子に座って、ずっと現金を数えている女のひとがいました。繰り返し繰り返し。たぶんですが、身なりと頭髪からして、精神を病んでいるひとかと思いました。しばらくしても、ずっと、ひとりで、誰かと一緒に来た、というのではなさそうでした。

 こんな年末に、ひとも多いし、物騒だからやめな、と思いましたし、声をかけようか、と思ったんですが、明るい、逆に、ひとも多い店内で、テナントの前でもあったんで、まあ、以上は私の言い訳ですが、そのまま黙って去りました。

 そのひと、住んでるとこから出てきたものの、行くところもなく、買うものもないのか、一緒に過ごすひともないのか、そうすると手持ちのお金だけが確実な支えかもしれません。


 どのひとにも新しい年はやってきますし、今年もやってきましたが、カレンダーを新しくするよう、温かい希望も一緒にやってきてほしいと思います。


 年の瀬の帰省と言いますが、帰省って、自分の人生における、来たところへ戻ることで、人生の道程を省みる機会ともなるんかもしれませんね。そういや、前、高倉健さん主演の、なんだっけ、倍賞美恵子、こっちは呼び捨てか、が、居酒屋の女将さんで、そういう映画を見ましたが、健さん演じる主人公も帰省してました。


 帰省して、出発点に戻ることで、自分の若いときを懐かしみ、今を、そう悪くはない、と思う機会になるかもしれないでしょうが、しかし、それは、戻るところがあればのことで、戻るところがなければ、その人生のここまで来る道程は、今いるここから、郷愁をもって、振り返ることになりましょうし、郷愁ですから、ちょっぴり美しい思い出、今よりも、そうなって、今は、願い叶わない、思ってもみなかった自分の惨めさに焦点があてられることもあるでしょう。


 帰る場所がある、ということは、帰るところに会いたいひと、がいることだと思います。場所って、ひとのいる場所ですから。それに、そのひとも会ってくれるだろうから。


 私がよく聞くのに、山崎ハコの歌があり、「望郷」って、とても好きなのがあります。

戻ることができない故郷がうたわれてますが、それは、もう戻れないのは、故郷ではなく、自分の純粋さ、というのか、自分が自分のままで許されていた時期、つまり、感情を、そのときに出すことができていた時期のことであろうか、とも、この歌を聞くと、思います。

故郷は、そういう自分のそのままを受け入れてくれていたひととの関わりであり、戻れる、ということは、そこに戻るといわゆる、素の自分でいることができる安心感があってのことなんでしょう。


 さて、私は、根なし草のようで、去ることに重きをおいているようなところがあり、戻るところより、行く先を案じる方かとも思います。

 最近、ネットで、人間関係リセット症候群、という話題がありました。もちろん、そんな診断名があるわけでもないので、単なる話題でしょうが、いやぁ、でも、そういや、私は、こどものときから、だいたい幼稚園の頃からですが、どこか、ガラス一枚ひととの間にあるような感覚で生きてきたので、たまに、それをとっぱらおうを頑張ったけど、無理でして、そういう人間なのだとつくづく思うので、望郷って、場所はない感じです。

 だいたいが、さみしがりなのに、ほっといてもらいたい、という、とんでもなく、面倒な人間なので、むしろ、相手の方が、二重ガラス一枚は確実に距離をとりますし、そのうち、関係をリセットさせていただきますね、となるでしょうね。


 まあ、そんなんだけど、自分がこれまでの人生で交差して、覚えあって、もしくは、覚えなく傷つけたひとのことは、それなりに思い出すもので、そのひとへの、もう、やりようのない、手の出しようがない申し訳なさは、なかなか消え去りません。そのまま持って去っていく、でしょうね。その方がよいと思います。

 いや、それで、もう新年になって1カ月は過ぎましたが、私、年末年始、時間を持て余す時期なんで、こんなことをぐでぐで考えて、んで、いろいろ思い出して、自分の過去が押し寄せてきて、先行きの船出の恐ろしさもあり、年末年始って、逃れたい時期なんですね。

 やっと、その時期が終わって、ほっとしてます。


 話は全然、変わりますが、マザーテレサは、この世で一番大きな苦しみは孤立であって、誰からも必要とされない、愛されないひとたちの苦しみであり、それゆえに、愛されることの意味を忘れたひとの苦しみ、というようなことを、かつて言いました。

 孤立は孤独と違うと思うんですね。孤独って、この世界に所属する感覚があって、自分が距離をとるように思うんですが、孤立は、距離をとられている。断絶がある。


 んで、何が言いたいか、というと、孤立はさみしいので、そういうひととの関係などない世の中であってほしい、ってのと、わざわざ孤独を選ばなくても、よい感じの距離をとってくれるひともいることを期待して、生きた方がいいな、ということです。

 この孤独と孤立の違いを、今、あれこれ考えて、別んとこに書く予定です。


 なんか、散漫な話でした。では、今から本格的に、きゅーけー、します。

 では、また。


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