以前、新鮮な魚が流通している地域に、住んでいました。
ぼちぼち暮らしていたアパートの近くに魚屋さんがあって、よく通いました。仕事など、泊まりで出かけなければ、毎日といっていいほど、通いました。
そこの魚屋さんはご家族でされていて、旬もさることながら、今日、どの魚が食べ時か、どう料理すると、よりおいしいか、などなど、詳しく教えてくださいます。それに、帰って料理できるように、さばいて、下ごしらえまで丁寧にしてもらえるので、ありがたいことでした。私は、そのご家族が魚を切る姿をずっと見ていたものです。
そこの、おばあさん、女将さんだと思います、というのも、いちいち家族構成を聞いてはなかったので、が、とても親切にしてくださったんですが、お亡くなりになりました。
毎日ほど行くわけで、ほどよく顔見知りにもなりますし、そのうち、世間話もできる仲になりますし、何かと親切にしてくださるので、たまには、どこか行ったときに手土産でも、と、思ったんですが、そういうなれなれしいひとづきあいは、その地域にずっといるのではないから、しないほうがいいんじゃないか、とか、一度、あげると、またしなくては、と、思うのが自分の性分だし、とか、ありきたりの土産以上に、おいしいものを知ってるだろうとか、ごちゃごちゃと、持っていかない理由を考えている間に、突然だったわけです。
それで、しまったなあ、と、思って、初盆にあたる頃に、そおっと、お土産を持っていきましたら、ご家族みんな、それが好きだ、とのことで、生前に食べてもらえればよかった、と、後悔しかありませんでした。
こういう後悔、私には、よくあるんですね。
それまで、それなりに仲良くしていたのが、何かのきっかけで、距離をおくようになり、その後、それを気にしつついたら、そのひとが急死した、しかも、長く患っていた、とか、もっと親身に連絡していれば、と。
たぶん、こういうことが起こるのは、私が自分を中心に物事を解決する、ひとに相談などしない性分なのと、もとの引っ込み思案からだと思いますが、相手あってのことですから、よくはないですが、なかなか、その自分を越えられません。
ひととの関係は、難しい。私は、先を見越した関係などより、目の前だけで距離を作り、そして、急に自分から引いて行ったり、迷惑な人間だと思います。
こんなことを考えてて、ふと思ったのですが、人間というのは、償いのために生きているような気もします。
知らない間に方々に迷惑をかけていますし、その分、助けられてはいるのですが、助けてもらったことに気づいていないので、やはり、そういった自分の行いに、ごめんなさい、をして、生きていくのも大事なのかな、と思う、言い訳と言えば、確かにそうでしょう。
でも、そんな感じです。
それで、どう償うかというと、気づいたら、ひとにやさしくする、ということでしょう。
優しく、とは、自分がしてほしい、ようにしてあげる、ということでしょう。もちろん、できないことはたくさんありますし、優しくすることが、そのひとをつまづかせるのなら、それはやめたほうがいいでしょう。しかし、この判断はとても難しいです。
する方がいいのか、しない方がいいのか、悩むのは、しんどいです。
ということで、ひとと接しながら、どうしようかな、どうしてあげたらいいのかな、と、悩みながら生きていくことが、償いをする、ということかもしれません。
しかし、償える、ということは、それだけ自分が迷惑をかけることができたひと、がいてくれた、ということです。
償える、ということは、自分の周りに自分に関わるひとがいてくれた、ということです。
疎外されたり、虐げられたり、無視されたり、暴力を受けたり、それらがなかった、か、そういったことをしないひとがいてくれた、ということです。
以前、ちょっとした連載をさせていただき、「ひとに迷惑をかけないこどもに育てる」と書いたところを、編集の方が、「こどもは迷惑をかけて成長するので、迷惑をかけることが大切で、そこにおとなの関わりがある」ので、表現を再考して、と意見されました。
なるほど、その通りだと今にして思います。むしろ、迷惑をかけて大きくなれるこどもがいることが大切で、迷惑をかけることができないこどもたちは孤独を生きているのだと思います。
ひとに手をさしのべることは大切です。しかし、さしだされた手を素直に信用できない、ひともいることは事実です。
けれども、あれこれと悩みながらも、さしだした手を引っ込めないことが、ひとを救うと思います。
償いができる人生は、そう思うと、幸せなことだと思います。
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