top of page
  • 執筆者の写真Hiroyuki Notoh

もう、今年の七夕は終わりましたが、うざいことを

 こんにちは。

 

 あれこれ、思いつくまま、そして、途中でまあいいか、また次に、と、中途半端なままの記事も、それなりの数になりました。

 書いているときは、じゃあ、この続きは次、とか、次回はこのことを、と思うんだけど、んで、さあ、書き出すと、また、違ったことを思いついて、書く。こんな感じで、続きは?どうなったの?と、置いてきぼりになっている話もいくつかあります。

 一応、忘れないように、なんとなく、メモっぽいのは残しているので、まあ、そのうち、埋めあわせをするということで、今回は、ちょっと思い出した話です。


 もう二十年と少し前にはなろうかと思います。職場を同じくしていた方が、どういう話のなかでだったかは忘れましたが、こんなことを、私に言うてくれました。


 こどもを育てるには、お金がいるよね。それも、そのお金って、こどもそれぞれ違って、もし、その金額が、親として、びっくりするぐらいであっても、それは、それだけのお金をかけないと、そのこどもが育っていかない、というもんだよ。

 必要なお金をかけないと、こどもは育たない、そう思うよ。


 当時、なんとなく、私も同意しましたが、でも、なんかつかめない話ではありました。

けど、今、あらためて、確かにそうかもしれないなぁ、です。

 それに、こどもだけではなく、ひと、みんなそうなんだろう、と思います。


 保護者の貨幣経済の力と、こどもの学力、学歴、就職、その後の所得が関係することは、政府のみならず、いくつもの報告で知らされ始めて、もう何年にもなると思います。

 確かに、こどもを育てるにはお金がいる、しかし、親がもつお金は限られている。


 うちには、こどもの教育にかける金銭的余裕はない、なので、必要なお金をかけないと、こどもは育たない、と言われるなら、うちのこどもは将来、どうしようもないだろう。


 このような考えをもつ親がいても、それも確かなことだろうと思います。


 ただ、ここで、「お金」と言っているのは、「必要なお金」である、ということです。

 では、「必要なお金」って、何でしょう。


 いろいろな考えがあるでしょうが、私は「必要なお金」とは、「お金の使い方の考え方をもって、使い方を選んで決めたお金の量」と、とらえていいのではないか、と、考えます。


 例えば、こどもがゲーム機をねだったとして、それに数万円、その後、ソフトに数万円、オンラインにまた課金、だとか、「必要なお金」は発生します。

 私は、ゲーム機が、ひとに役立つと思ったことはありません。アシスティブテクノロジーとして、代替スポーツとして、といった役割はあると思いますが、これは使い方であって、ゲーム機を、ゲームをするものとして使っている範囲は、私は不要と思います。


 私がそう考える理由は、ゲーム機が達者になったところで、生きていく役には立たない、というところです。むしろ、生きる力を阻害していくと思っています。

 様々な動画コンテンツも同様にとらえています。


 ゲーム機のソフトのプログラムに従って、それに自分をあわせていくわけです。

 自分の時間をソフトのプログラムに従って、使っていくわけです。

 つまり、自分の限られた命を、決められたプログラムにあわせるわけです。

 自分の人生を、ひとに決めてもらっているのと同じように思います。

 つまんない、です。


 よくアナログゲーム、ボードゲームと呼ばれるゲーム、これらは、ひとの役に立つ、と、私は思っています。

 ルール、すなわちソフトのプログラム、は決まっていますが、偶然の作用する範囲が広いからです。なので、そのとき、そのときで、どのようにゲームを進め、どうすれば思う通り結果を出せるか、そのときどきの問題解決が、ひとに委ねられるからです。


 ゲーム機が身体に有害だ、特に脳の発達に有害だ、という主張もありますが、明らかにはなっていないようですし、私は、それはそうかもしれないけれど、それ以上に、自分の命の使い方、それを考えるところで、有害だと思います。


 こんなことを言っておいて、数年前、エンジンのついた乗り物の免許をとるとき、数時間、動画コンテンツに自分の命を捧げました。

 エンジンの始動に始まり、ハンドル操作などなど、動画コンテンツの解説を聞きながら、パソコン画面を前に、エアー運転を練習したものです。

 なので、動画コンテンツのお世話にはなりました。


 言い訳ではなく、結局、使い方、と思います。私の場合、動画コンテンツを自分が立てた目標、エンジンのついた乗り物の免許をとるための道具に使った、ということになります。そこで、自分はどうも教習だけでは、追いつかない、なので、実地に入る前、運転に必要な操作を、とことん自分の身体に覚えこませなければならない、そのための道具として、動画コンテンツを使った、です。


 やることがない、時間をもて余す、動画コンテンツでも見よう、ではない、ということ。


 私が懇意にしている方で多趣味な方ですが、それら趣味でやりたいことに一旦、区切りがついて、新たな展開が見つからないとき、ひたすら、ゲーム機に「どはまり」しているようです。

 お会いすると、「このゲームはあーだ、こーだ」「完全攻略を何度もした」など、いかに自分がこのゲームを深く知り、熟達しているか、誰も自分の能力に叶う者はいないほどだ、笑顔で豪語してらっしゃいますが、私はこれは、「あり」と感じます。

 というのは、ゲームをする時間は、この方にとって、何かやりたいことが見つかるまでの時間、という区切りがあり、ゲームで得た自分の感想をひとと交流する道具として用いて、結局、ゲーム評論家のように、冷静にゲームをする自分をとらえて、そんな自分を楽しんでいるからで、ゲームをすることに、依存してはいないからです。

 

 電車に乗れば、多くのひとが動画やSNSを見ているようです。私は音楽を聴いているか、窓の景色を眺めているか、小説を読むか、たいていそんな感じです。見たいものがない、SNSはしない、というところもありますが、そんなにどうしても見なければならないもの、確かめなければならないもの、が、あるのか、とも思います。


 話を戻して、ゲーム機、ソフト、オンライン、課金などにかけるお金があるんだったら、例えば、なんか楽器を買って、練習したらいいのに、と、思います。

 こっちの方が、よほど、楽しいんじゃないか、そこから興味も広がるだろうし、ひょっとしたら、ひとと一緒に活動もできるんじゃないか、自分の時間を楽しさで満たす趣味となるんじゃないか、そうすると、人生の長い時間に渡って、楽器を練習する、というところに、自分が賄える範囲のお金をかけた方が、生き方を広げることになる。

 こう、私は思うんですね。


 お金が、ひとに何をもたらすのか、どう必要で、どう役立つか、育ちの目的を考えずに、場当たり的に、使う、ということは、ひとが生きていくことを台無しにしてしまうようにも思います。


 さて、今年も、こどもたちが書いた、願いごとの短冊を見る機会がありました。


 「どこそこのテーマパークにいけますように」

 「なんとかにへんしんするアイテムがほしいです」

 「はやくはしることができますように」

 「みんなが、げんきで、たのしくくらせますように」など、いろいろありました。

 

 どれも、本人にとっては、切実な願いでしょうね。


 でも、「願いごと」と「頼みごと」は違うと思います。


 どこかのテーマパークには「連れて行ってほしい」のですし、なんとかのアイテムは、「買ってほしい」わけで、それは親に頼むことで、親と相談することです。

 つまり、親の裁量に委ねられる、こども自身では手が届かないことです。


 でも、「はやくはしることができますように」、こちらは、もって生まれた運動の能力はありますが、練習する、教えてもらう、など、具体的な手立てをもって、ちょっとでも叶う可能性のある、自分で手に入れることができるかもしれないことです。

 「みんなが、げんきで、たのしくくらせますように」、これも、自分ができることは実行可能です。


 これらは、私としては、願いごと、自分に願って、自分で励んでいけそうなこと、んで、その短冊を、あとで読み返したとき、自分で自分の成長を実感でき、自分の可能性を信じる力となるものだと思うんです。


 なので、私は、せっかく、願いごとを書くなら、その短冊をとっておいて、来年の七夕に読み返したとき、「自分って、この一年、ようやってきたやん」と思える、そういう内容を書くといいんじゃない、と、こどもたちに伝えたいなぁ、と思います。


 こんなふうに考えると、七夕の願いごとは、「お金の使い方の考え方をもって、使い方を選んで決めたお金の量」を、「自分が行う活動に置き換えたもの」、かな、と、思います。


 私の今の願いごとは、たくさんありますが、一例を紹介しましょう。


 「こういう音の出る、ひとに迷惑なこれだけの音量を出す、電気を使う、楽器がほしい」

 「ふにゃふにゃ、ぼわん、と、過ごしても、あとで困らない、時間がほしい」


 どれも、「あんたが、頑張って働いたらええだけのことや、自分の願いだけで、世の中になんか役立とうと思わへんのか」、と、言われそうです。


 それでは、また。


閲覧数:171回0件のコメント

最新記事

すべて表示

就学前の教育で思うこと。ちょっとフレーベル

こんにちは。 つい先日のことです。 長らくミッションスクールで教育職を務めてこられた方とお話しをさせていただく機会をいただきました。その方が、次のようなことをおっしゃいました。 内容と表現は、私の方で変えています。 5歳児のこどもたちがクッキーを作って、同じ数ずつ、みんなで...

お久しぶりなくせに、いきなりですが、私はこれからも生きていきたいと思っています。

こんにちは。 半年ほど、「ブログ」はそのままでした。ほっといたわけじゃないんです。 いいわけ、というか、経緯というか、ちょっと、ほかに書くことがあるからなんですが、ちょっと時間ができたので、つい先週、思ったことをお話しします。...

中学生の娘です。サンタがほんまにいると信じてます。

こんにちは。 この前は、まだまだ暑いときでしたが、もうすっかり、季節が移りました。 それで、それなら、いっそのこと、もうひとつ。サンタさんが登場する話です。 ずいぶんと前に、次のような問いを受けました。 「私には、中学生になる娘がいます。吹奏楽部に所属し、管楽器の演奏に励ん...

Comments


bottom of page