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  • Hiroyuki Notoh

クリスマスによせて

 こんにちは。


 これは、以前、15年、も少し前でしょうか、知りあった方から聞いて、ときおり、話してみたくなります。


 イエス・キリストが生まれたことを最初に知らされたのは、羊飼いたちだったそうです。馬小屋でマリアが出産した後、イエスは飼葉桶に寝かされたとのことです。

 当時、最も貧しい身分にあったらしい羊飼いに、他の階層の者よりも早くイエスの生誕が知らされたこと、これは、イエスが、虐げられたひとびとのために生まれたことを意味するようです。

 また、馬小屋はひとが住む場所ではありませんし、飼葉桶は馬の餌である藁を入れるものです。旅路に泊まるところはなく、布団もない。イエスは、最も貧しく、何も持たないものとして生を受けたことを、これは表しているようです。

 つまり、イエス・キリストは、虐げられ、貧しいひとびとと同じ立場に身をおいて、そのひとびとの幸せを願い、そのために一生を捧げたひと、そう生まれたことが、その誕生の日にある、ということになります。

 なので、イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスは、この世界で、躓かされたといえるひとびとに救いがあることを求める日となります。

 クリスマスは、そういったひとびとのことを思う日である、と。


 その後、私が知り得たことを追記しましょう。

 イエスの母であるマリアと、父であるヨゼフは許婚の関係だったようです。

 マリアもヨゼフも敬虔な信仰をもっており、お告げによって、マリアは処女懐胎します。しかし、身体的な接触を彼ともってはいないのに、身ごもったことをヨゼフはどう思うか、マリアは悩みましたでしょう。ヨゼフもまた、マリアを信じるのか、婚約を破棄するのか、悩んだようです(遠藤周作: イエス巡礼. 文春文庫, 1995.)。

 ひとを信じることへの苦悩のもと、イエスは世に現れたということになりましょう。


 だからといって、クリスマスに、プレゼントを贈る、もらう、ひととあそびに出かける、おいしいものを食べる、といったことをしてはならない、というのではないでしょう。

 自分は自分なりに、その一日を過ごしつつ、自分のように、自由にひとと会えないひと、食べられないひと、ものをもてないひと、虐げられ、貧しさに押しやられたひとのことを、忘れず、今の自分のおかれた状況に感謝することが大切なのだろう、と思います。


 以前、高校生のときに通っていた予備校に、ギリシア哲学とか、なんかそういうのを研究している、という、辛辣で皮肉な言葉だけれど、正論で筋道立った説明をしてくれるので、私は好きだった英語講師がいました。そのひとは、クリスマスの日は、毎年、ディケンズの「クリスマスキャロル」を読む、と言っていました。同じ小説を、毎年、決まった日に繰り返し読むことで、自分を省みる、ということを話していたように記憶しています。

 それを見習って、私も数年は試してみましたが、その小説に興味がわかなかったことや、身辺の変化もあり、習慣とはならず、結果、クリスマスや前日は、適宜、過ごしています。


 私が、保育の領域に入るきっかけを作ってくださった方、もうご高齢ですが、その方が、毎年、手作りのパウンドケーキを、クリスマス前に送ってくださいます。大病はおさまったものの、その後も、辛うじて体調を維持しつつ、残された身をこどもに捧げたいと、今も、全国で保育の研修をされています。

 先日、その方から、メールをいただきました。以下のような文を記しておられました。

 いただいた文の内容を変えずに編集させていただきました。


 保育園での虐待が問題になっています。それだけではなく、児童養護、高齢者、障害者、出入国在留管理庁など、各施設での虐待は後を絶ちません。被害にあう弱者へのしわ寄せは強いですし、加害者自身も、社会的に弱者であることもあります。人権への意識の希薄さが根底にあるように思います。今こそ、こどもの人権を守らなければ、この国の将来はないと思います。


 「守られている」安らぎがあるからこそ、「守る」ひととなる、と、私は思います。


 「守られている」からこそ、何を「守る」か、を学ぶことができるでしょう。

 「守る」を、決まったことを決まったようにする、と、言い換えてみます。守ることは、ひとが繰り返し、同じ学びを続け、覚えたことを行動に移すことを導きます。そして、その繰り返しを与えるひとは、学ぶひとの成長を確認もでき、新たな学びを創造もできます。

これが保育の日課といわれるものでしょう。


 毎日が、日替わりの遊び、保育者によって、年齢によって、連続性がなく、構造化されていない日課では、こどもにとって、継続した学びはありません。継続した学びが習慣とされないなかで、おとなが規則を求め、こどもに社会化を一方的に求めるとしたら、こどもは、そのようなおとなを信頼はしないでしょう。例え、日替わりの遊びを喜んでいたとしても、それはイベントごとであり、喜ぶこどもにおとなが慰めを求めているだけです。これでは、こどもが喜ばないと、おとなは慰めを得られませんから、おとなは自分本位にこどもを叱るようになり、結果、飼いならされ、自分ひとりで何をどうすればいいのかわからない、こういったこどもが育つかもしれませんし、一方的に飼いならして、時が来れば、さようなら、という、無責任なおとなが許されることが当たり前ともなりましょう。

 やがて、こどもは、学んだように、おとなになります。

 虐げるひとと虐げられるひとができるわけです。


 行事も、そこに意味がないといけないと思います。なぜ、クリスマスを祝うのか、なぜ、運動会をするのかなど。意味なく繰り返されるものごとのなかには、ひょっとしたら、その形骸の中に、ひとの心を将来、損ねてしまう力が潜んでいるかもしれません。


 私がここで使った「意味」という言葉ですが、「意味」は「楽しさ」と「大事さ」という感覚によって作られている、と、私は考えています。なので、私は、行事は、「楽しさ」と「大事さ」が、そこにあるべき、と思います。

 「楽しさ」は、単に面白かったというのではなく、学びに自ら焦点を向けたくなることであり、続けて取り組みたいという志を育む感覚です。取り組み続けたいのですから、当然、この学びを自分はできる、という自分の能力の理解と、理解した能力が発揮できる場が必要です。

 「大事さ」は、この取り組みによって、自分を大事にできることができるという、自信、ともいえる、自分を大切にする感覚です。「大事さ」は、「価値」という言葉と同じです。

 その価値とは、それぞれのひと、もの、こと、の間にある違いです。異なることが、それぞれの価値です。なので、それぞれのひとが、それぞれに取り組み続けたい、もの、ことに向かい、そこで得られる自信を保障して、学びを継続できる内容が、行事に含まれるべき、と思います。

 なので、行事は他者との競いではなく、自分自身への取り組みが集合をなしたものです。自分に励むこと、励むひとを励ますことは大切です。けれども、自分を恥じること、ひとを蔑むことはあってはなりません。日常はもちろん、行事も同じく、救いはあっても、競いによる躓きがあってはなりません。なぜなら、ひと、もの、ことの価値は多様性にあります。

 行事は、催しものではありません。おとなのためのエンターテイメントではありません。


 無邪気にサンタが来ることを信じて眠るであろう幼子は、我が身がおかれている境遇も、知恵が枝葉をなした後に覚える己の貧富も階層も、何も知らぬまま、やがて、目覚めると、身も心も守られぬこどもからおとなへとなった、母親の伏せる嘆きに気づきもせず、つなぐ手を、ときにそのまま、ときに振り払って、両手を空へと挙げ、ふたり、クリスマスの街を歩くのでしょう。

 さしだした手をどちらが引いたのか、いずれにせよ、手の届かぬひとの幸せを祈りつつ、今年のクリスマスが、こどもにとって、意味をもつよう、そして、将来にわたって、楽しい感覚と、自分を大切にする感覚を忘れず、自分を省み省み、ひととの連帯のなかに生きる、そういう経験が、与えられる日となるよう、願います。


 では、また。


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