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ゴールデンカムイの感想のはずでした。

執筆者の写真: Hiroyuki NotohHiroyuki Notoh

 こんにちは。


 さて、この前、親しい知りあいが「ゴールデンカムイ」、ほぼ全巻を貸してくれました。それで、どうも、よほど気持ちが入っていたのでしょうね。遠方で開催された「ゴールデンカムイ展」に出かけてきて、そこで購入したらしき、バッグに入れて、渡してくれました。

 私は、通勤帰りのひとたちがまだ多い電車に、「ゴールデンカムイ展」のロゴとともに、乗り込み、持ち帰りました。

 せっかく貸してくれたのですが、もう長いこと、漫画を読んでなかったのと、もちろん、この作品も知りませんでしたし、読む習慣を作るまで、時間がかかりました。

 ただいま、せっせと拝読しております。 


 あー、ここで、ひとつ説明です。


 保育の場で、よく、「おともだち」と、あるこどもからみた他児を表現しますね。

 例えば、「順番だよ。おともだちを押さないでね」「おともだちが揃っているお机から、いただきます、を、しましょう」などなどです。

 私は、この「おともだち」という言い方にずっと違和感を持っています。

 何にでも「お」をつける丁寧さも気になりますが、それは、今回は、置いておきます。

 それよりも、「私が、押した相手は、ともだち、なのか」、「私が、机を囲んでいるひとたちは、みんな、ともだち、なのか」。

 それぞれのこどもはどう感じているんだろう、と、思います。

 どうも、おとなは、そこに関心を置かず、当然のごとく、「ともだち」、と、人間関係を括っているのではないか、というのが、私の思いです。


 確かに、みんなが「ともだち」の間柄でいてほしい、という、おとなの願いが反映されているのはわかります。

 しかし、では、「ともだち」って、どういうひとのことを指すのか教えて、と、尋ねられると、即答できないのではないでしょうか。


 「ともだち」って、誰だろう、自分には、そういうひと、いるのかな、と、私は幼少の頃から、思ってきました。誰を「ともだち」って呼べばいいんだろう。逆に、自分のことを、「ともだち」、って、思っているひとは、誰だろう、とも。


 なんとなく、こういうひとかな、と、考えるところはありますが、私は、確信をもって、「このひとは私のともだちです」「このひとは私の親友です」というのは、言えませんね。

 ただ、SNSは、その点、考えずとも、「ともだちを申請」できますし、私も何も考えず、それを受けることはあります。

 とりあえず、今、私が考えている、保育における「ともだち」の説明は、「げ・ん・き 2022年7月 第192号」に書いてみましたが、まだまだ、考えていく必要がある、です。


 そういうことで、親しい知りあい、と、この方を呼んでみました。ついでに、私にとって「親しい」とは、普段の話し言葉を使って、やりとりができるし、相手もそうだ、しかし、言葉を選んで、相手の表情などもうかがいながらで、たぶん、相手もそうだろう、という、感覚を表しています。

 ご本人が、私のことをどう思っているかは、わかりません。


 今、こんなことを書いていて、ふと、思ったことがあります。

 あれ、そうすると、ひょっとしたら、「ともだち」っていうのは、次のような存在かも。


 普段の話し言葉を使って、やりとりができるし、相手もそうだ。

 言葉を選んだり、表情をうかがったり、そんなことを相手にあわせて、注意深く、お互いしなくてもいい。それより、相手に伝えたい自分に焦点が向き、それで、お互いのことが、わかる。

 もし、気に障ったら、お互いに、躊躇なく、そう伝えて、躊躇なく、ごめん、と言える。それで、次の交流に移っていける。


 確かに、こういう関係は、気が楽ですね。


 さらに、思いつきましたが、「親友」というのは、上記の関係に加えて、次のようかも。


 自分が悩んでいること、困っていること、判断に迷っていることを、話したときに、なるほど、あんたは、そういうところ悩むよね、確かに、あんたは、そうしようと思うやろね、などと、まず、私の思い、考え、感覚を拾ってくれ、そのうえで、こうする方が、あんたにとっていいと思うよ、と、私が救われる方法を言うてくれて、さらに、このことを忘れず、それからどうなったんよ、と、尋ねてくれる。

 こういう、ひとのことでしょうか。


 そうかもしれませんが、どうも、私は、そういう相手がいたとしたら、ありがたいけど、そのひとに甘んじている自分、ひとりで解決できない情けない人間の自分、いう感覚を持ちますね。

 なんか、私のなかでは、結局、自分のことは自分しかわからないし、ひとに期待しても、自分とは違うことを言われると、もういいわ、と感じるので、相手をそう思うぐらいなら、自分で結論を出して生きていくしかない、と、いったところですね。


 話がとんと飛びますが、だいぶ前にお亡くなりになった女優、大原麗子さん、この方を、さみしがりやなのに孤独癖があった、と言っていたひとがいましたが、なんとなく、私は、そういう感覚が納得できます。


 いや、それで、そのゴールデンカムイの話をしたかったのですが、それは、次回に。

 では、また。


 
 
 

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