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  • Hiroyuki Notoh

今回は、ゴールデンカムイの感想のはずです。

 こんにちは。


 いや、それで、ようやく、「ゴールデンカムイ」を読了いたしました。もう秋のお彼岸。夏の間に、岡本太郎の展覧会に行ってきました。正確には、岡本太郎氏の作品の展覧会、となるのでしょうが、作品そのものが、そのひとですから、そう表すことにします。そこで、「明日の神話」も見ることができました。

 言いましたっけ?「ゴールデンカムイ展」にも紛れてきました。


 私は、「保育とは」とか、「保育者とは」とか、「こどもを理解するとは」とか、研修に寄せてもらえば、偉そうに言ってます。

 しかしながら、「だいたい、それなら、あなたは保育をしたことがあるのですか」、と、問われますと、「ありません」。正確に言うと、数年はありますが、とんでもなく以前で、それも兼務でしたから、「ありません」が正直なところです。


 それでも思うんですが、保育もそう、教育もそう、ひとの生活に含まれる物事全てには、「思想がある」と思っています。

 けれど、なんか、保育の世界って言われるところを見ると、やり方というか、ノウハウというか、そういうところに焦点が向けられている、そんな感じがするんですね。

 例えば、「発達障害のこどもがみるみる落ち着く言葉かけ」とか、「すっきりイラスト すぐにわかる・すぐにできる 体幹を鍛える運動遊び」とか、「保護者と一緒に納得 読むより見て 写真で語るこどもの記録」とか、「見開き1ページ こどもが主体的になる遊び50選」とか、これらは、今、書きながら適当に私が思いついた保育本のタイトルですが、こんな感じの本がいっぱいあって、こういうのが求められているけど、それでいいのかな、というのが、私が思うところです。


 んで、「思想」というと、たいそうな感じですが、そんなことないんですよ。

 例えば、「登園したら、かばんを片づけるように促そう」という「保育の関わり」は、「必要な身支度は、自分でできるようになってほしい」という「保育者の希望」があって、その根っこには、「自分の生活を自分で営めるようになることは、今の社会を生きる上で、ひとからとやかく言われず、自分が困らないためにも必要だ」という、「これが正しいとは言い切れないけれど、とりあえず大事にしたいひとつのものの考え方」が含まれています。

 このような考え方が「思想」です。

 面倒なことを言いますが、思想とは、絶対こうだ、というのではなく、絶えず更新されて変化する、あるものごとについて、ひとが関わるにあたっての考え方、まあ、こんなふうに私は、ここではとらえています。

 んで、大事なことは、「保育の関わり」には、こどもへの「保育者の希望」があり、その希望には保育者のもつ「思想」がある、ということです。

 なので、思想が変わると、希望も変わり、関わりも変わります。だからこそ、保育者は、自分がもっている思想を明らかにして、それでいいのか、どうなのか、あれこれと考えて、よりいいだろう、と思う方向へ自分を向けていかないと、ふと気づいたら、知らない間に、こどもにいい加減なことをしていた、ということにもなりかねないわけです。

 加えて、「思想」から「希望」をもって「関わり」を行うため、かばんを自分で片づけることができるよう、こどもの身体や扱う能力に応じたかばんやロッカーを用意し、こどもの言葉や図形の理解の発達に応じたマークや文字でロッカーの場所を提示する、といった、「環境」を用意する。

 保育環境も、思想を踏まえて考えないといけないように思うんです。

 それで、今の例だって、「かばんを片づけるように促す」ことは、「(保育者が)自分のことは自分でできるよう(こどもを)育てる」なんて、偉そうな言い方をするじゃなく、「(こどもが)自分の生活を自分なりに営むことができる。そうして、将来、自分で考え、生きていけるひととなるように、(保育者は保育を行う)」といった表現で、「こども」が主体だよ、そう考えるのが大事だよ、と、とらえた方がいいんじゃないか、とか。

 言葉ひとつひとつ、文のひとつひとつを考えるのも、保育は誰のものか、という思想を、表すことになるんだと思います。


 しつこいですが、思想がなければ、例え、どれだけ必要な環境を提供し、保育の手立てを提供しても、それらを通して、何を育てるかがない、つまり、こどもに育ってほしいものがない、それは、こどもに期待するものがない、伝えたいものがない、なので、とりあえず、漫然と、なんとなく、生きればいいか、この程度でいいんじゃない、ということを教える、ことにしかならないわけです。

 これは翻って、保育者自身がそういう生き方で、自分の命をやり過ごしている、ことをも意味します。

 だいたい、人間、なんで生まれてきたかを問うのではなく、自分がなぜ生きるかを自分で意味づけて、生まれてきた理由を自分で作る話だと思います。

 それに、命というのは限られますし、亡くなったときには、享年何歳、と言われますし、命は年齢でありますから、年齢は時間であるので、命は時間の区切りです。

 時間は、この瞬間瞬間の連続ですから、今、何を考え、何を思うて過ごすか、これが命を自分で意味づけることだと思うのです。

 そうすると、意味づける、ということは、自分がどう生きたいか、何をしたいかを考えることですから、これは、この世界にある環境から、自分が何を選び、何を作るか、という、自分が大事だと思う物事へと自分を向かわしていく、自分への挑戦であり、この駆動から、自分にとって、どれだけ自分は大事か、を、価値づけることにつながるわけです。

 なので、保育の思想の土壌には、自分はなぜ生まれたかじゃなくて、生まれてきた以上、どう生きたいかを考えようという、希望を、こどもに伝える役割があると思います。

 なんだけど、やっぱり、私が感じるのは、保育の手立て、例えば、こういう体操を行う、何歳になればお箸を覚える、字を練習するなど、どうも手立てが優先しているんじゃない、って感じがして、なので、私は、保育は思想だ、と、強く主張したいのです。


 それで、ゴールデンカムイとなんの関係があるの、ということになるんですが、例えば、登場人物のアイヌの女の子は、自分が学んだ狩猟について、調理について、といった、ノウハウについて、なぜそうするかの意味、つまり、思想を、他の登場人物に伝えています。

 これは、自分が、だけではなく、自分が未だ知らない子孫まで食べ物が与えられるよう、命が続くためには、今、何を考えて、何を伝えなくてはならないか、生き続けるために必要な思想を、手立てとして示し、手立てを通して、その思想を身体で実現することを教える、つまり、このような役割が今を生きる自分には与えられている、ということを、この物語は表しているように思うのです。

 そして、ゴールデンカムイのその女の子の思想は、アイヌに伝わる神話の中にあります。ですから、神話は、生きるために大事にすべき思想、すなわち価値観です。

 今の言葉で表すとすれば、持続可能な社会を実現するために、具体的な生活のノウハウは神話の中にある。ひとは神話を学び、神話を実現して、神話を伝える、役割をもっていて、神話を自分に培っていく作業が次の世代を生かす、という、こういう思想が、この物語にはあるように、私は思ったわけです。


 私は、どうも、この神話を学び、神話を自分に収め、神話を伝える、言い換えるならば、価値観を学び、価値観を収め、価値観を伝える、これがなくなれば、命はつながらない。

 こういう考えの薄らいでいるのが、今の社会、いや、私が思う限り、先の大戦後の日本の社会のような気もします。

 誤解しないでいただきたいのですが、私は、神話というものを、一部の権力が自分たちの利益のために都合よく利用した特定の時代の神話を言っているのではありません。

 何か、信じるもの、命をつなぐために大事にしていきたいもの、これを、私は、ここでは神話と言っているのです。


 家庭にだって神話はありますよね。

 自分たち家族はどういうルーツを持ち、どういう生き方を先代が行い、そして、それが今、自分たちにどう影響しているか、そして、その影響をどのように判断して、どう自分の生き方を考えるか。

 親がこどもに、食べ物を大事にしなさい、というのも、単にそれだけではなく、食べ物が不足して困った時代を経験した先代がいて、教わり、食べることができることは普通にやり過ごすことではない、という考えをもち、しかし、食べ物の困らないよう次の世代に生きてもらいたい、という希望が表されたことと思うと、これもひとつの神話かと思います。


 さて、岡本太郎展の帰り、会場近くの町中華に寄って、おかずを買いました。車内くさいやろけど、ごめんな、と、袋を膝に置いて、ぼやんと電車に揺られていました。

 ドアが開いて、Bluetoothのイヤホンをはめて、一心不乱にゲームをやりながら向かいの座席に腰を下ろした若いひとがいました。

 前も見ないで、よう着席できたな、と、関心しました。

 それで、ゲームを続けてて、ときどき、手が疲れたのか、岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言ったときみたいに手を振り上げ、手首をぶらぶらして、また、ゲームをしてはりました。

 ゲーム機器って、電気で動きますが、電気って、これからもなくならないんでしょうか。ゲームがすごくできるようになって、どんな神話が生まれるんでしょうか。


 今でも覚えていることがあって、中学のとき、担任が、なんの授業か忘れたけど、人間の発展は、二次関数の曲線で表される、と、それっ、あんた、なんかの受け売りやろ、っと、もって生き場のない反抗心の強い私を刺激するようなことを言ってました。

 んで、今は(私が中学だから、40年ほど前)、x軸で表される時間が少し進むと、発展を表すy軸はとんでもなく上がる時代に入っている、とのことでした。


 とんでもなく上がった先に、人間はどうなるんだろう、今、二次曲線のどこなんだろう、と、考えるときがあります。

 岡本太郎が挙げた手と、若いひとが挙げた手、指先の向かう方向は違うんでしょうか。


 こんなことをいろいろと考えた、私の夏でした。


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