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  • Hiroyuki Notoh

今度は年賀状の話ですかぁ、いったいどうして

 こんにちは。


 以前から、繰り返し思うのですが、「ひとを注意する」、ということ、まあ、注意などと遠回しな言い方をしましたが、つまり、「叱る」、ということは、簡単だわ、と思います。

 確かに、叱るとき、それをする方は、それなりに、それでいいのか考え、その後のこと(つまり、フォロー)も用意して、ではありますし、感情的になっていないか、と、自分を省みることもします。逆に言えば、そういった、自分を振り返ることなく、叱る、ならば、それは、単に、自分勝手なことで、自分の気が済むよう、はっきり言えば、ひとのことなど知りません、私がすっきりしたいからです、と、人権無視の態度、自分のためにひとを利用する、であるわけですが、そういうのを、「怒る」、と、表現するのかとも思います。

 ということは、怒るってことは、責める、や、許さない、という言葉に言い換えることができそうです。

 許さない、って言われると、怖いですね。


 確かに、誰しも、怒ることがなくはないです。私もずいぶんと怒ります、というよりも、自分では、商品名をもじって、チャッカマン(即着火人間)だと自認しています。すぐイライラして、すぐ怒ります。ただ、言わないだけで。でも、顔に出るので、だいたい、周りが気をつかうか、ほっとかれてしまうか、で、それで、ほっとかれるとさみしいので、さらにイライラするか、媚びるか、という、ひとを困らせる、だらしないところがあるのですが、さらによくないのは、こういった自分を正そうとしない、というか、「しょうがない」、とあきらめている点です。

 ついでに言いますと、しょうがない、は、こんにちは、や、いただきます、以上に、私の日常語です。


 さて、それで、じゃあ、叱る、が簡単なら、難しいのは何、ということですが、それは、「ひとを許す」、ことだ、と、私は思っています。

 と言いますのも、許すためには、許したことで相手がどうなるか、相手に責任を持たないといけなくなるからです。許したことで、怒られずに済んだ、よかったよかった、と、水が流れていくような生き方を習慣づけてしまわないか、許した後、自分なりに考えて取り組むだろうか、私があのひとを許したことで、あのひとが坂を転げ落ちるような生き方をしたならば、周りは私をどう思うだろうか、はたまた、許した後、結果、自分がその荷を被ることになるのではないか、など、許した自分の背負うものが増えることになって、相手に関わり続けなくてはならないので、自分で自分を不安に追い込むことは必至です。


 ひとを許すと、自分が試されます。


 そうすると、ひとを許すときに、必要なのが、それでよかったんじゃないの、と、言ってくれて、その後、どうなったか、また教えて、と、言ってくれる誰か、なわけです。


 叱るときは、こういうひとは不要です。というか、そう注意しなくても、とか、言い過ぎじゃない、と言われると、余計に腹立たしいので、叱るときは誰にも知られない方が、楽と言えば、そうで、自分の気の済むように叱りますし、その後、相手が恨みがましそうな目で自分を見ているんじゃないか、なんて、気にするのが怖いので、相手を避けようともする、言い切って、知らん顔の方が楽です。

 許す、という場合、それを知られると、周りから、そんなんでいいの、とか、甘いんじゃない、と、言われますが、そうなると、かえってむきになって、許そう方向に気持ちが傾くもんです。


 こんなことを考えると、許す方が大変だなあ、と、思うわけです。

 それに、あのひとを許した自分でいいよね、って、なかなか思えない。いや、そんなこと思うなら、それは、ひとに寛大な自分に酔っているだけで、それは、結局、もう許せない、ときがやってきて、ひとを叱る自分になるわけです。

 なので、あのひとをよく許してあげたね、いいことだよ、と、ちょっと、言うてよ、と、誰かに救いを求めたくもなります。


 そうすると、ひとを許すためには、自分が救われている安心感がないといけませんね。

 救われている、ということは、こんな自分でも受けいれてくれるひとがいるんだ、自分が間違ってても、大丈夫だよ、それでいいんだよ、と、許してくれるひとがいるんだ、ということですから、自分が許される経験、と言いますか、許されている感覚、がないと、ひとを許すことはできません。

 許すことは連鎖です。連鎖は、良きにつけ悪しきにつけ伝えあい、ですから、嫌な感情を伝えるより、よい感情を連鎖させたいものです。


 ついでに、「罪」がある、ことと、「悪」がある、ことも違うかなぁ、と思います。


 自分に罪がある、ということは、自分の行いを省み、罪を犯した自分を自分で引き受け、その対象となったひとがいるなら、そのひとのことを忘れませんし、思い続けます。

 そうすると、罪がある、は、ひととひとの間に、結びつきがあるように思います。

 でも、自分に悪がある、というのは、自分は悪いし、と、自分で自分のことを切り離した感覚で発言されるように思いますし、自分はそんな人間やし、もうやってしまっんだ、もう済んだことだ、しょうがないやろ、と、対象となるひとに対して、開き直ることです。

 これは、自分を自分で疎外して、自分とひとを切り離して、結果、自分を追い込むだけ、自分を、ひとを責めるだけ、のようなものか、と思います。


 ごちゃごちゃ言いましたが、許さない、より、許す気持ちが、こどもとこども、こどもとおとな、おとなとおとなの間にあって、優しさの連鎖が続いてほしいと願います。


 さて、5年ほど前、こんな年賀状を書いたのを思い出しました。当時のものの抜粋です。


 イエス・キリストのたとえ話です。

 裕福な父親が自分の財産を半分ずつ、二人の息子に与えました。

 弟は財産を握ると遠くへ行き、放蕩の果てに身を持ち崩しました。友だちと思っていた者たちは離れ、食べるものにも困り果て、「自分は父のもとに帰って罪深いことを詫びよう、息子としてではなく、使用人として扱ってもらおう。自分はその程度の人間だ」と考えて、帰りました。

 父は喜び、その子を抱きしめ、上等な食事を用意して祝いました。すると、兄が仕事から帰ってきて、「自分は毎日一生懸命に働いているのに、遊んで財産を食いつぶした者を祝うなど許せん」と言いました。

 父は、「死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだ。祝うのは当たり前だ」と答えました。

 私は、このたとえ話を、「死んでいた『こころ』が生き返ったのだ。いなくなっていた『こころ』が見つかったのだ」、と、解釈しています。

 この話が書かれているのは、ルカの福音書です。その別のところに、「つまずきが起こるのは避けられない。だが、それを起こさせる者はいまわしい」とあります。

 結果を求めず、今、判断せず、『こころ』の復活を待ち、「起こさせる者」には、ならぬよう、身を省みて、隣にいてくださる方々のご健康とご多幸を心よりお祈りさせていただきます。


 こういう心情を持たないとしんどかったんか、と、当時の自分を振り返って思いますが、当時と、あんまり変わらない状況と自分なのは、やはり、「しょうがない」に甘んじているからかもしれません。


 そのうち、じゃあ、ひとを許すには、どうすればいいの、を、具体的にお話したいと思います。


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