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前から気になっていた、おとなのこどもへの態度

執筆者の写真: Hiroyuki NotohHiroyuki Notoh

 こんにちは。

 数年前から気になっていたことを、自分のなかで整理してみましたが、どうでしょうか。


 次のふたつの文のことなんです。


  1.おとなが、このようにはたらきかけると、

    こどもは、これだけのことを行うことができる。

  2.こどもが、このように行うことができるので、

    おとなは、このようにはたらきかける。


 「1.」について、遊びの例

  おとなが、人形によるお世話遊びのための、布団や服、抱っこひもを用意して、

 それらを使った遊びを示すと、

  こどもは、それを模倣して、「お人形が眠いって」とストーリーを思いついて、

 まるで、自分より年下のこどもを寝かしつけるかのように、遊ぶことができる。

 「2.」について、遊びの例

  こどもが、「お人形が眠いって」とストーリーを思いついて、寝かしつけるので、

 おとなは、人形のお世話遊びのための、布団や服、抱っこひもを用意する。


 「1.」について、生活の例

  おとなが、抱っこ食べで、スプーンをともに握り、ごはんをすくうことを繰り返すと、

 こどもは、椅子への座り方やスプーンの使い方を覚えて、

 その後、ひとりで食べることができる。

 「2.」について、生活の例

  こどもが、椅子に座って、スプーンで食べようとするので、

 おとなは、抱っこ食べで、スプーンをともに握り、手伝う。


 さて、上記の「遊びの例」ですと、こどもが主導して、それをおとなが手伝う、つまり、いわゆる、こどもの主体性から、遊びを展開しているのは、「2.」といえます。

 「1.」は、おとなが主導して、こどもに促している、という態度のように思えます。

 しかし、「2.」ができるためには、こどもがストーリーを思いつくことができるよう、かつ、そのストーリーを行うことができるよう、必要なものを、おとなが揃えるとともに、実際の寝かしつけの手順を学ぶ機会が、こどもには必要です。

 ということは、「1.」を知る機会とともに、または、実際の生活で、自分を、他者を、おとなが寝かしつける姿を見る機会に出会うことが、「2.」をもたらす、といえます。


 では、次に、「生活の例」をみると、同様に、こどもの主体性によるのは「2.」です。「1.」も、おとなが主導しています。

 しかし、やはり、「2.」ができるには、「1.」を経験する、実際の生活で、おとなが食事をしている姿を見る機会に出会うことが必要です。


 以上から、遊びも生活も、こどもが主導して行うことができるよう、その主体的な行動を保障するよう、おとながはたらきかけるには、こどもに、模倣する経験が必要となります。


 それとともに、「1.」から「2.」へ。そして、「2.」から「1.」への循環が大切です。

 「1.」だけだと、おとなの指導が主となるばかりで、こどもによる展開が狭くなりそうです。

 「2.」だけだと、模倣の経験が狭くなりそうなので、こどもによる展開もそうなりそうです。


 おとなによる見本の提示→こどもによる展開→おとなによるこどもの展開の解釈

→おとなによる見本の提示→こどもによる展開→おとなによるこどもの展開の解釈・・・


 このような循環が必要なのかと考えます。


 そして、おとなによる見本の提示にあたって、おとなは、そのこどもの発達段階にある、言葉、認知、運動、社会性などの一般的理解と、個々の把握をもとにすることが求められるでしょう。

 それに、できたら、こどもによる展開をおとなが予測できておくと、次の見本の提示へとつながるのでしょうが、そればかりでなく、こどもの展開に即興的に応じる発想とともに、経験的に培った手立てを、おとなは、もっておくことが必要でしょう。

 この即興は、確かに難しいことですが、これこそ、こどもの行動に参加し、そこに素直に応じると、なるほど、そのこどもの発想に気づくこともできますし、こどもの行動から学ぶことで、おとなも即興のバリエーションは増えると思います。

 おとなにとって、大切なのは、こどもと、一緒に遊ぶ、一緒に身づくろいを行う、ということですね。


 かれこれ30数年前かな、Harry Stack Sullivanの「関与しながらの観察」という考え方を教わりました。このことをあれこれ学究したことはないですが、表現だけだと、似てるな、と思います。


 しかし、それより、このような循環におとなが身をおき、こどもから学ぶ態度でいると、「1.」だけのように、おとながこれだけのことをしたから、こどもが変わったという、「オラオラ感」はなくなるだろうし、おとなはこどもにこれだけの影響を与えられる、との「すごいだろ感」にも陥らずにいられる、つまり、傲慢が過ぎるようなパターナリズムに、こどもを巻き込まずに済むでしょうね。


 でも、おとな、って言うか、ひとって、割と、自分より立場の弱い他者を、自分の虚飾のために利用する、というところに陥っていることって、結構、知らずとも多いと思います。


 どれだけよいことを表しても、どこかに、「オラオラ感」と「すごいだろ感」があると、もったいない。

 それに、そういった「感」を出すひとを、「素晴らしい」と信じてしまうと、弱い立場のひとをさらに、そこに留めてしまうひとに、知らず知らずになる。


 自分のずるさ、に気づき続けないと、いけませんね。

 では、また。

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