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寄り添いたくなるこどもに育てる

執筆者の写真: Hiroyuki NotohHiroyuki Notoh

 こんにちは。


 そんなにたくさんのブログを書いているわけではないのに、だんだん、これまで、自分が何を記してきたのか、わからなくなってきました。

 なので、今回、ひょっとしたら、「前に書いてましたよ」みたいかもしれません。


 さて、先日、保護者の方々にお話しをする機会をいただきました。

 いろいろとお話しするなかで、私は、こんなことを言いました。


 「最近、こども中心、主体性を大事にする、寄り添うことが大切、と、よく聞きますが、確かに、私もそうは思いますが、そうするためには、『中心に考えてあげたくなるこども』『主体性を認めてあげようと思うこども』『寄り添ってあげようと思えるこども』に育てることが、まず、大事だと思います」


 これは、なにも、おとなの言うことを聞くこども、おとなの都合がよいこども、を育てるべき、と言っているのではありません。


 例えば、こどもが、「宿題を終えた。晩御飯も食べました。お風呂に入って、寝るまでに時間があります。それまで、遊んでていいかな?」、と、養育者に尋ねたとしたら、必要なことはやったし、まだ寝るまで時間があるし、他に用事もないから、それは、「いいよ」と思います。

 例えば、こどもが、「宿題はめんどくさい。晩御飯は苦手なおかずだからいらない。先に遊んで、終わったら、お風呂入って、寝るけどいいかな?」と、養育者に尋ねたら、すべきことは済んでいない、晩御飯は苦手なものは食べなくてもいいけど、全く食べなくて、後でお腹がすいたらどうするの、先のことを考えてみたら、それに洗い物は養育者がするので、その立場を考えてみたら、自分が遊びたいことだけ考えて、自分の都合で寝る時間を決めている。それは、自分勝手だから、「だめだよ」と思います。


 このこどもの「自分勝手」を、「その子の思いだ」から大事にしよう、というのは、私は間違っていると思います。

 だって、そんな自分勝手が当たり前な行動を身につけて、おとなになったひとがいたら、どうですか。

 ともだちになれますか、一緒に仕事したいと思いますか。

 私は、受け入れられません。


 全てができなくても、今すぐにできなくても、自分ができることはしようと思う、約束は守ることが大事だと思う、ひとの立場になって考えることを知る。

 こういったことに取り組もうとするこどもなら、それは、寄り添いたいと思います。


 最近、こういった光景もよく見るようになりました。


 保育園や幼稚園に養育者が迎えにきました。

 「帰るよ」と言っても、「帰らない。遊ぶ」と言って、養育者の顔も見ません。養育者はいつまでも繰り返し、「帰るよ」「帰るよ」と言っても、こどもは、全く聞こうとしない。それで、養育者は保育者に「こどもが帰るように言ってください」「こどもが帰りたくなるように、夕方の時間の過ごし方を考えてください」と言う。


 養育者が、なぜ「帰るよ」と自分に言っているのか、その意味がこどもに伝わっていないのです。


 いつまでも遊んでいたら帰るのが遅くなるし、養育者が夕食を用意するのにも時間は必要だし、洗濯だって、明日の準備だってしなくてはならないし、おとなのすることがこどもは全部はわからないかもしれないけれど、それはこどものために必要なことで、だから、早く帰ろうと言っているのだし、それに、保育園や幼稚園の先生だって、そこに住んでないし、勤務しているのだから、いつまでも帰らないでいたら、先生も帰れないし、もし、養育者にこどもを引き渡した、でも園内で遊んでいた、そこで事故が起こったら、誰が、どう責任をとるのか、避けることができる事故でこどもに何か痛ましいことが起こったとしたならば、それはこども自身の一生だけではなく、養育者の一生、保育者の一生にも、関わる。また、ひとりのこどもがいつまでも帰らないと遊んでいて、それで、他のこどもも、「自分も」となったら、どうなのか。

 こういった、自分の立場、相手の立場を考えての「帰るよ」であることを、はっきりと、こどもに伝えないと、こどもは、「自分勝手」が当たり前、と、でも、それが「自分勝手」とは思わない習慣となるように思います。そうして、そのこどもがおとなになり、養育者の立場になったら、どうなりますでしょうか。


 先に挙げました、『中心に考えてあげたくなるこども』『主体性を認めてあげようと思うこども』『寄り添ってあげようと思えるこども』に育てるために、養育者に求められていることは、ただひとつだと私は考えます。

 それは、養育者が、自分がどう生きていきたいかを、他者との関係のなかにおいて、その生きるうえでの価値観を考え続ける、作り続けることであって、自分がそこに向かっていく力を、自分に身につけることです。自分の生きる方針を、どう生きていきたいかを、それを自分の身をもって、こどもに表すことです。

 こどもを育てるとは、おとなが自分で自分を育てることです。おとなが自分を育てて行かないと、こどもは育たない。そう、私は思います。


 もうちょっと具体的に、だいぶ前に、私は次のようなことを、こどもに育んでほしいと、養育者に願ったことがあります。


① こどもには近づいて,身体に触れて,ゆっくりと,短い言葉で,話してください.

   ひとの話を聞くひとに育ちます.

② こどもには,おとなの表情を見せてあげてください.

   そうしたら,思いやりの気持が育ちます.

③ 「だめ」ではなく,「こうした方がいいよ」と言ってください.

   自分を大切にする気持が育ちます.

④ こどもが自分から降りるまで,膝からおろさず,抱っこの習慣を作ってください.

   自信をもってひとに頼みごとができる,自立心が育ちます.

⑤ なにを感じて,なにを考えているのか、おとなが話しあいをする姿をみせてください.

   ひとを否定せず,自分を否定せず,お互いを大事にできるひとに育ちます.


 これらの意味は、いずれお話ししたいと思います。ひょっとしたら、もう書いたかも。


 話は変わりますが、私が教えを受けている方が、このような話をくださいました。


 「以前、累犯専門の施設で、教誨師をしていました。ある日、おおよそ40歳代を過ぎた受刑者数名に、絵本の読み聞かせをしたことがあります。ひょっとしたら、『そんなこどもだましみたいな話はいらない』など、抗議されるかと思いましたが、全然、そうではなく、食い入るように話を聞き、『いいもんだねえ』との感想でした。どの受刑者も、どうも話を聞くと、こういった経験をこどものときにできなかった、してもらえなかったようでした。幼いときに満たされなかった心の空洞を、どうにか埋めようとした結果が犯罪となったかもしれません」※


 私は思いますが、「心の空洞」というのは、家庭で育ったから、両親が揃っていたから、保育園や幼稚園、学校に通っていたから、金銭的な苦労はしなかったから、やりたいことをやれたから、ではなく、養育者が自分に何を求め、どういった生き方を伝えようとしたか、つまり、自分に「積極的な関与」を注いだかどうかによって、塞がれるものかと思います。


 この文を書いていて、ふと、中学生の頃に買ったレコードを思い出しました。

 吉田拓郎の「アジアの片隅で」というアルバムのタイトル曲です。

 ここに歌詞を挙げると、たぶん、著作権などに引っかかると思うので、ご存じない方は、ご自身でお願いします。


 ※ これは学校法人北陸学院元学院長・理事長の楠本史郎先生による話です。

   楠本史郎: 幼な子をキリストへ 霊性をはぐくむ保育教育の理念. 北陸学院大学 臨床

   発達心理学リエゾン・ブックレット, 北陸学院大学臨床発達心理学研究会, 2010.

   ここに詳しく書かれています。


 では、また。

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