写真を撮る、という、感覚、というのでしょうか、私にはそれがないようです。なぜかはわかりませんが、おそらく、今、見ている、このままを残して、このままを再び見たい、と自分が思った通りに収めることができないので、手ごわさ、うまくいかなさを感じるからと思います。それと、映してしまう、と、その出来事が過去のものとなり、過ぎ去り、いや、そのように収めていく方向へ自分を向かわせるようにも感じるからです。
ほかにも思うところはありますが、このようなことで、撮影をする習慣がないんですね。
それで、いつだったかは忘れましたが、静岡県浜松市にあります、社会福祉法人七恵会 ながかみ保育園の野村弘子園長さんが、昨年に本を出版する道も作ってくださった方です、フォトグラファーの川端アリさん、を紹介してくださいました。
アリさんの写真を見たとき、私は涙が出ました。
そのとき拝見した写真は、ながかみ保育園のこどもたちと保育者の方々の、普段の保育の場面でした。
でも、そのときだけでなはく、いつもなんですね。ながかみ保育園を撮影したアリさんの写真を見ると。自分でもなぜ泣いてしまうのか、わからない。
いくどか、写真を何枚も見せてもらって、弘子さん、アリさんとも、お話して、ちょっと前に、私の理由がなんとなくわかったんです。
こどもたちと保育者の方々が、幸せなんですね。幸せって、何だかうまく言えませんが、たぶん、アリさんがシャッターを押す、その瞬間、感じていることが、その場にいるみんな一緒で、その感じていること以外は感じていない、その時間と場所にそのこと以外はない。例えば、散歩の途中なのかな、一緒に花を見ていたら、一緒に花を見ているだけ、花を見て感じていることが一緒、そういう姿が写真から見えてくるんです。
なので、そこにいるこども、保育者、みんな幸せだなあ、と感じるんです。
でも、涙が出る理由は、そうじゃないんです。
そこに映ることのない、ここにはいない、いないだけではなく、おそらく、そういった、時間を経験することはない、なかろう、こどもたちのことが浮かび、そのこどもたちの親のことが浮かび、泣くんです。
どのこどもも、このような時間を過ごせたら、そして、このような時間を自分のこどもが過ごしていること、そこに安堵を感じることが親もできたら、と、ここに触れることができない、こどもと親がいること、その生活を思うと、辛くなるんです。
自分勝手な感傷ではなく、身近に、関わっている場に、アリさんの写真に収まってほしいこどもと親がいます。アリさんがカメラを向ける保育の場に、たどりついてほしいこどもと親がいます。
手の届くところに、手を届かせることができるであろうところに、手をさしのべられない理由があって、その手を握れない理由もある。
こういった、ひとの辛さを、アリさんの写真は忘れさせてくれると、同時に、このことを忘れてはいけない大切さを、伝えてくれるように思うんですね。
この文を掲載してよいか、アリさんに尋ねましたら、「写真は、見るひとが自由に感じるもので、私(アリさん)ひとりで残せた写真ではなく、その場に私がいて、その光景を私が自由に切り取った、その時にできるだけ動ける範囲で、その光景を撮り逃さないようにと、撮ったのが私だっただけだと思っています。弘子さんが、素敵な写真、って、おっしゃってくださいますが、いつも私はそこで言うんです。保育が素敵だから、写真に表れるだけです(アリさんの文のままではなく、内容のままに野藤が編集)」とのお返事でした。
アリさんが言う通り、私も、こども、親、保育者の素敵な営みを、逃さないよう、言葉で表し続けたいと思います。
でも、いつか、写真もアップしてみたいものです。
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