こんにちは。
最近、こんなことを考えました。
赤ちゃんが生まれました。眠っています。しばらくして、お腹が減ったので、泣きます。
さて、その声を聞いて、母親が授乳を始めようとします。
赤ちゃんは、その間、待たなくてはなりません。
母親は早くしなくては、と焦りながら用意します。
それで、ようやく、赤ちゃんは母親にたどりつき、泣きやむことができて、母親もほっとします。
さて、このことを言い換えますと、次のようになるでしょう。
赤ちゃんは、①自分が困ったことを伝えます。②しばらく待ち続けます。③母親が解決を図ってくれます。
母親は、①赤ちゃんが困っていることに気づきます。②手立てを図ります。③赤ちゃんは落ち着きます。
それで、④赤ちゃんも母親も、ともに安堵します。
このとき、赤ちゃんは、授乳する母親の手立てを受け入れて、自分で乳を摂るべく、口を動かします。全くの母親任せではなく、自分が行動しなければなりません。
ということは、ひとは、生まれてわずかのときから、次のことを学ぶといえそうです。
① 自分に何かあったら、それを発信すると、解決を手伝ってくれるひとがいる
② そのひとの手立てを受け入れ、そこに自分も協力しなければならない
③ 自分が安堵を得るためには、待たなければならない
①ひとを信じる気持ち、②自分の問題の解決に参加する行動、③時間をかけて取り組む、つまり、待つ=我慢する、という、これらは、ひとつに結びついて、ひとりの人間のなかに育まれる。
こう考えることができそうです。
さて、ここで、このような母親がいるとしましょう。
赤ちゃんを泣かせるのはよくない。なるべく泣かさないようにしよう。
なので、赤ちゃんが、お腹が減ったと泣き出したら、すぐに授乳しよう。
こうスタンバイしています。
すると、次のようになります。
赤ちゃんは、①自分が困ったことをちょっとだけ伝えます。②すぐに解決が得られます。
母親は、①赤ちゃんが泣いたことにすぐに気づきます。②すぐに解決を図ります。
なので、すぐに穏やかになれそうです。
しかし、赤ちゃんにしてみると、自分はどれぐらい困っているのか、困り感をひしひしと感じる時間は短いです。加えて、待つ経験はしなくて済みます。
なので、やっと困りごとが解決した、という安堵感は少なくなりそうですし、誰が助けてくれるのか、くれたのか、そう気にせずともよさそうです。
また、母親は、赤ちゃんを泣かせない、ことに、自分の行動の力点を置いていますから、それが少なく済めば、それで、自分の役割を果たしたことになりますので、自分の行動への達成感は増します。
しかし、赤ちゃんは、どれぐらいお腹が減って困っていたのか、それで、どれぐらい安堵してくれたのか、そう気にせずともよさそうです。
お互いを知る気持ち、お互いに携わる行動、我慢すること。これらをそれほど経験せずに済みそうです。
さらに、もうひとつ、考えてみます。
赤ちゃんが泣いていても、そこに関わらないでおこうと思う母親がいるとします。
すると、次のようでしょう。
赤ちゃんは泣いても泣いても、解決が得られませんから、どうしようもないし、泣くだけかえってお腹が減りますから、あきらめます。
母親は、赤ちゃんが泣かなくなったので、より関わる必要を感じません。
これでは、もちろん、お互いを知る気持ちも、お互いに関わりあう行動も、我慢するも、これらの経験は起こりません。
それどころか、赤ちゃんは、自分の命を自分で台無しにすることを覚えそうです。
どうも、スタンバイするのも、関わらないのも、どちらも、よいことはない。
むしろ、互いの関わりに応えあうことの方が、ともに得られる安堵は大きいようです。
手を挙げると、自分を見つけてくれるひとがいる。そして、そのひとの支えを得て、自分のことは、自分が取り組まなければならない。
当たり前のことですが、何でも思い通りにはいきません。自分だけでは無力です。だからこそ、ひとを信じ、互いに助けあうことが求められます。
こんな当たり前だけど、とても大切で、でも、とても難しいことを、生まれて。わずかなときから、ひとは自分のなかに培い続けていくのだと思うと、ひとは、いつのときも、よくやっているなあ、と思います。
赤ちゃんもおとなも、誰でも、同じ学びに取り組んでいるのですから、誰もが同じ権利を保障されるのは、当たり前なのでしょうね。
なんだけど、この当たり前が、なかなか当たり前でないのが、今、私たちがおかれている世界なのでしょう。
ひとを信じること、ひとを助けること、自分に取り組み続けること、我慢を覚えること。これらによって、ひとが互いに結びつき、ともに与えられた命を、与えられた時間、生きることができるのでしょう。
ここに自分を求めたいものだと、思います。
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