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執筆者の写真Hiroyuki Notoh

根拠のない考えをひとつ

 こんにちは。


 彼岸花の咲く頃に書いて、季節もすっかり移り変わっています。あちらこちらと、寄せていただいて、あれこれと思うているうちに、1カ月以上、経ちました。


 賽の河原地蔵和讃、というのをご存じの方もいらっしゃると思います。

 私が知っているところをお話しさせていただきます。

 

 親に先立って亡くなったこどもは、賽の河原、というところに着くとのことです。

 こどもは、ひたすらに、柔らかい手で、硬く荒く削れた石を拾い集めて、それらを積み、親の安寧を願います、が、鬼が現れて、その石塔を、崩し、散らします。

 このとき、地蔵菩薩が来て、こどもたちを抱き寄せます。


 鬼は、「お前は、親を思うて、石を積み、幸せを願っているのに、その親は、お前が亡くなったことを嘆くばかりで、自分の悲しみしか考えていない。お前が極楽浄土で仏のもと、安らかに過ごしているのに、ありがたく思おうともしない」といったことを言うようです。


 こどもが亡くなれば、いや、そうでなくとも、こどもに何かあれば、その身を案じ、何かできることはないか、我が身と変わってやることができれば、と、憔悴し、穏やかならぬ、長い時間に心砕かれるのが親であろう、と思います。

 しかし、どうしても、こどものことだけを思うばかりではなく、確かに、自分が苦悩から解かれたい気持ちも、どこかに、どのときかに、起こりもするでしょうし、我が身を退けたとしても、周りのひとのことを、ときには、こども以上に心配もするでしょう。

 それに、物事によっては、こどもの無事を願いつつも、なぜそうなったのか、あのとき、こうしてさえいれば、なぜ、あの子は、と、こどもの行いを追求し、それさえしなければ、と、こどもへの怒り、そこまでの強い感情ではなかったとしても、こどもの行いを悔いる、といいましょうか、このような気持ちが湧き起こることもありましょう。


 鬼が言うよう、素直にこどもの幸せのみ願うことができない、それが親かもしれません。


 どこで知ったか、ずいぶんと前、すっかり忘れましたが、次のような句を覚えています。

 確か、詠みびとは、故郷を遠く離れ、長く、定めのない生き方をしているようです。


   尋ね人 掲示されたる 我が名前 老母は今も 俺を見捨てず


 この老母は、こどもが生きていることを願いつつも、なぜ自分のもとを遠く離れたのか、なぜ、定職につかなかったのか、なぜ、家庭を持とうとし、定住しなかったのか、と、そう育てたのかと、自分を責めもし、そのような生き方をするこどもに怒りも覚えたでしょう。

こどもを心配しつつも、周りを見て、なぜ自分だけが、と、親として、当然、与えられたであろう、期待する楽しみを奪われた感情を、こどもに向けもしたでしょう。


 親である自分を責めるのも、こどもに怒りを向けるのも、それをとがめはできない、そう私は思います。誰もが自分の幸せを生きようとします。

 しかしながら、こどもは、親のことを心から思うている、だから、親は、ここに気づき、親である自分が感ずる幸せは、自分の期待が与えられることではなく、こどもの希望が叶うことだ、と、願い、こどもに尽くすことから生まれる、と、私は思います。


 広池秋子による「オンリー達」に、米兵を相手とする街娼によるものだったか、うろ覚えですが、次の句が記されています。


   荒れ狂う 恋のとりこの紅バラも いつか散りせば ちちははぞ恋しき


 こどもは授かりもの、という言い方を聞きます。誰が授けたかは知りません。

しかし、授けられた、ということは、誰かが、自分のものを私に与えたのです。

ならば、授けられたものは、必要なら返さなくてはならない預かりもの、でしょう。


 こどもは、預かって、返すべきもの。親のものではありません。


 旧約聖書の『創世記』22章1節から19節、アブラハムが神の求めに応じ、息子のイサクを生贄にする話があります。

 文を追うと、神はアブラハムが自分をどれだけ信じているかを試した、と読めそうです。息子は死んではいません。


 私は、これも、こどもは親のものではない、ことを表していると考えています。


 私は、最近、このようなことを思います。


 こどもは親を選んで生まれてきたのかもしれない。この親を育てよう、よい人間になってもらおう、それが自分の役割であり、この願いが成就するよう、生まれ、育とう。

 親は、選ばれた身であるから、選んでくれたこどもの感覚、感情、考えを信じて、それに沿うように育てなくてはならない。

 今、自分がしている、こどもへの思い、行いは、こどもに向けたものと言い切れるのか、いや、自分に向けているのではないか、そう省みて、自分のためでなく、こどもの幸せへ、自分の希望を向ける。これが、親の幸せであり、幸せを幸せとして感じることができる者になる道なのだ。

 私はこどもに育ててもらって、親になれるのだ、と。


 このような気持ちを忘れない親は、こどもを虐げることはないでしょう。

 こどもを虐げないおとなには、こどもが幸せを運んでくれるでしょう。


 親を救うために生まれてきたこどもが、親から虐待を受けることはあってはならない。


 虐待をされるこどもも、親の幸せを願って生まれてきたのです。

 ひとを救う命は、救われる命です。


 何か、子育てのことを考えるとき、聞くとき、尋ねるとき、いずれのときも、そのときに覚える感情は、こどものためか、自分のためか、誰の満足か、注意深く考えたい。


 こんなことを、最近、私は考えています。

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