生かされて生きる
- Hiroyuki Notoh
- 6月11日
- 読了時間: 4分
こんにちは。
ずいぶんと日が経ちました。
先日、お世話になった方の葬儀に参列いたしました。
司式者の方が、そのひとを評して、「生かされた方だった」と表されました。
「生かされた」というのは、どう考えたらいいのでしょうね。
そのとき、私は、自分の人生を、自分にはたらきかける存在に委ね、その存在に導かれることを「よし」として歩んだ、ということなのかととらえました。
もうちょっと考えます。
「生きるよう生きる」と「生かされて生きる」の違いについて。
前者は、自分が、どのように生きたいかを考えて、それを意志をもって、選択する。
後者は、自分は、どのようにはたらきかけられているかを考えて、それを意志をもって、選択する。
どちらも自らの意志による選択を行っていますから、主体的であるといえましょう。
ただ後者は、自分の人生は自分のものではない。これが言い過ぎならば、自分「だけ」のものではない、というところがあると思います。
両者を比較や良否で判断するものではないでしょう。自分はどう生きたいかによると思います。
つまり、自分の信じるところによるということです。
「信じる」ということは、冗長な同語反復ですが、「自分が信じる対象に受容されている」そう信じることが必要と思われます。さらには、「信じることが自分の存在の理由である」ところかと。
まとめると、「自分の信じる対象に受容されていると信じる自分を信じる」ことといえるように思います。
では、自分を信じるために何が必要かと言いますと、その自分の感覚、思い、考えへの、安心ではないか。
この安心は、どのように得られるのでしょうか。
自分が自分のこと、何らかの困難を乗り越えようとするとき、深刻な問題や選択に解決を図る必要があるとき、これらのことを、自分だけで考えても、どうしてよいかわからない。それに、身近な他者に尋ねても、その通りと思える言葉をもらえない。
このようなときに対話する対象が存在している。その存在は、直接、言葉をくれないかもしれないけれど、それだけに、その存在がどう考えているかを思い巡らし、熟考する。
この見えない存在が、自分を知ってくれている、見てくれている、思ってくれている、と感じることができて、その存在に直接ではないけれども「触れる」感覚があると、それは、その対象に自分の存在が救われているという、安心となるのではないでしょうか。
「この存在は、このように私に言うのではないだろうか」。この言葉を信じて行おう。
ここから自分が救われていることを信じて、その救いの存在を信じて、その救いが自分に何を求めているかを考えて、自分の人生を、意志的に選択する。
ここに、自分を信じる力が生まれるのではないでしょうか。
このように考えると、自分のことばかり考えて生きなくてよい感じがします。
何でも自分が、自分が、なんて思っていると、うまくいかないときに、自分に絶望しますから、どこかで、何か、自分を導くはたらきがある。もしかしたら、この絶望は、何らかを自分に示そうとしているはたらきかと思うことも、その場ではなかなかそう思えませんが、この状況を乗り越える力の源泉かもしれません。
さて、何十年か前、スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」という映画を見ました。確か、そこでは、コンピューターがひとの言うことを聞かず、勝手に動き出し、ひとを脅かすというところがあったんじゃないかと記憶しています。
最近の人工知能、AIですね、は、ひとの言うことを聞いてくれて、自分の思考を肩代わりしてくれるので、あたかも、自分の道具と思ってしまいますが、知らず知らず、AIの指示に従っている、というところで、ひとが道具になるという、主体性の欠落がそこにあるように思います。
しかし、これも、最近の話ではないですね。学生さんがレポートなどを書くにあたって、かつては、ネットで探す、Wikipediaを引用する、などもありましたし、同じような話で、もっと遡れば、70年代に起こったオイルショックでティッシュペーパーがスーパーからなくなるとかもありましたし、週刊誌で暴露されてどうだとか、今なら、SNSで政治が動くわけですから、私らずっと、主体性の欠落を経験していて、これはまるで、依存状態と言ってもよいようなところです。
依存度が二次関数の曲線のような状態が普通になってきたとは過ぎますでしょうか。
私はこんな駄文を書きますが、AIで書き直そうとかは思いません。開き直るとか、自尊に得意になっているとかではなく、そんなことしても「面白くない」からです。
自分で考える方が面白い、と思うのと、あれこれ言われるのが嫌なだけです。
あるから使うより、ないからどうするかを考える方が面白い、と思うのです。
「生かされて生きる」も依存じゃないかと思われるかもしれませんが、先にも言いましたように、ここには自分を信じるはたらきがあるように思います。
信じるという行いが失われて、いくつもの依存の波紋が重なりあって、結果、何らかの決断をしなくてはならないときに、また依存して、うまく行けば、それは自尊。うまく行かなければ、それは他罰。そして、他者の命を奪う。
自分が「生かされている」ことをもうちょっと考えてみたいと思っています。
では、また。
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