top of page

「根拠のない考えをひとつ」のさいご

  • 執筆者の写真: Hiroyuki Notoh
    Hiroyuki Notoh
  • 2022年12月1日
  • 読了時間: 4分

 こんにちは。


 私が今の時点で知り得た情報の範囲の話です。


 マスクをつけていても、顔のそのうえの部分、両眼、鼻のつけ根のあたり、そこが見えていると、このひとは誰か、を特定できるようです。また、その見えている顔のうえの部分に表される動きから、このひとがどのような感情でいるかを推測できるようです。

 これらは、認知科学、情報科学、医学、発達学などにおける顔認知、という領域で研究が進んでいるようです。


 「ようです」「ようです」という言い方は、どうも、自分には責任がないよ、と遠回しに言っているようで、以降、やめておきます。


 んで、研究というのは進むわけですから、当然、しばらくすると、肯定されていた結果を覆すような報告も出てきますし、新たな学問の分野や、そのテーマが主ではない研究の領域から、また、異なった結論が表さる、といったこともあります。それに、どう考えても当然だろう、と思われることであっても、研究結果としては証明されていないから、そうは言い切れない、ということもあります。


 そうすると、マスクをつけていても、相手が誰か、そのひとがどういう感情かわかる、というのは、絶対大丈夫、という知識ではないでしょう。


 広く考えると、絶対そうだ、といえる前提はとても限られていると思います。


 こういったあいまいさに対して、結論を急いでしまうと、この考えが正しいが、こちらは間違っている、と、まるで善か悪か、それに、さあ、あなたはどっちの立場、となり、敵か味方かみたいな、そこで、自分とは異なる意見のひとを排除する攻撃が生まれもします。

 また、結論を急ぐということは、自分が得る情報を限定してしまいもするし、おおよそ、そうだろう、と思う情報のみを、気づかぬうちに取捨選択して都合よい方向に自分をもって行っていくことや、世論の多数でいいんじゃないか、と検討することをやめてしまうこと、少数に正論があるんじゃないか、と信じ込む、など偏った思い込みが生じもするでしょう。


 保育で、おとながマスクをすることが、こどもにどういった影響を与えるか、について、広く情報を得て、検討された方針ではなく、なんとなくそう思うよね、そうだよね、という感覚的なところで意見がなされたり、そういった言葉がネットに挙がる、影響を強く与えるひとが話す、というところで、憶測があたかも正しい結論、となっている状況を感じます。

 マスク自体がどこまで感染を防ぐのか、そのマスクの素材も、今、示されている飛沫防止効果は再現性が確実なのか、感染そのもののメカニズムや、感染予防の方法は確実なのか、ワクチンの安全性はどうなのか、など、どれをとっても、「おそらくそうだろう」、でも、「絶対そうではない」が、現時点での結論かと思います。


 そうすると、今、必要なことは、これが正しい方法だ、あれは間違っている、と、対立を選んで、「あなたはどっち派」と、どこかに帰属意識を持つことではないと思います。


 そういう考えもあるんだね、そういうことも考えた方がいいんだね、と、広く情報を得るなかで、大事なのは、個人、もしくは、何らかの役割を受けもつ集団、それぞれが、情報を吟味し、生じている問題の解決方法を検討し、その吟味と解決を更新し続ける、この循環の過程で、適切な情報を随時、得ることでしょう。適切とは、例えば、先の感染に関する情報ならば、それを研究対象としている有識者の見解や、査定された研究に基づく結果と解釈、こういったことが、該当するでしょう。なんでも、わかる範囲で広く得ることです。


 「マスクをつける = 感染対策 = 表情が伝わらない = こどもの発達に問題」、だから、「マスクはやめる」

 「マスクをしない → そういう国は多い → マスクをしている国は遅れている

 → 政府に問題がある → 私たちだけでも外そう → 外さないひとは間違っている」

だから、「マスクはやめる」


 いろいろな考えがあると思いますが、例えば、次のような考えもあります。


 「マスクをつける = 感染対策 = 表情が伝わらない(かもしれない) = 換気と距離をとって、フェイスシールドを使って絵本を読む時間を作る = 少しでも、こどもの発達の問題を防ぐことができる(かもしれない)」


「マスクをしない → そういう国は多いようだ → マスクをしている国は遅れている(かもしれない) → 政府に問題がある(かもしれない) → 私たちだけでも外そう → 外さないひとと、私たちは、身体的な距離をとるなどして、行動をすみわけてみよう

→ お互いの考えを尊重して、権利を守った感染対策ができる(かもしれない)」


 対立を和合へ、急ぐのではなく、対立を対立のままに、次の可能性を考え、互いの権利を認めあい、自分は正しい、と思いこまない、ということが大事なのかな、私は、思います。


 
 
 

最新記事

すべて表示
今年の年賀状です。

いつもありがとうございます。昨年もお世話になりました。心より感謝申し上げます。 幼少期に身につけた、なにを大切に生きるか、という、信念とまではいかないにしても、 立ち居振る舞いは、心の奥底ではなく、どうも中心にあるような、そんな感じがします。...

 
 
 
前から気になっていた、おとなのこどもへの態度

こんにちは。  数年前から気になっていたことを、自分のなかで整理してみましたが、どうでしょうか。  次のふたつの文のことなんです。   1.おとなが、このようにはたらきかけると、     こどもは、これだけのことを行うことができる。...

 
 
 
ひとを信じることができるひとに育てる、ひとつの手立て

こんにちは。  先日、数年ぶりに会った青年が、こんなことを言いました。  「オレは障害者じゃなかった」  その方は、公的な障害の認定を受けています。数年前に交通の事故に遭って、片足は思うように動かず、いずれは切断をしなくてはならない、と医師から告げられています。...

 
 
 

Comments


Copyright © 2022 Hiroyuki NOTOH All Rights Reserved.

bottom of page