「もじゃもじゃ」
- Hiroyuki Notoh
- 10月13日
- 読了時間: 6分
こんにちは。うかうかしていたら、長く続いている暑さもだいぶゆるんできました。
先日、私のブログを楽しみに何度も読み返していると、ありがたい言葉をくださった方が「なかなか新しいのが掲載されないんですよね。それに、読むのもさっとはいかないので、なかなか苦労しますね」とのことでした。
同じことを私もしばらく思っていたので、ここはやらねば、と、書いた次第です。
訪ねる先々で、こどもから、こんな不思議を問われます。
「なんで、そんなになったの?」
もしくは、結論を言い渡されます。
「もじゃもじゃ」
ご存じの方はいらっしゃるでしょうが、私の髪型の話です。
かれこれ45年は越したでしょうが、小学生の頃から、ずっと、同じ美容師の方に面倒をみてもらって、パーマと毛染めが定着しております。
髪型を何んと言い表せばよいのかわかりませんが、アフロじゃなくて、カーリーヘアが、適切かと思いますし、また、金髪ではなく、明るいアッシュ系と見てもらえればよいのではないでしょうか。
こどもから尋ねられると、「パーマだよ」と、どうすれば、「落ちないカール」になるかを説明し、「毛染めというのだよ」と、どうすれば、「水に流れない発色」になるか、なんとか言葉を選んで説明しますが、結果、「私はやだ」と、仲間になることを拒まれます。
その美容師の方が言うには、最近のお母さま方は、パーマをかけることがあまりないし、もとの髪色を大事にされるところもあるそうです。
なので、私の頭髪は、こどもにとっては、ちょっとしたハプニングに値するのでしょう。
「雷が落ちたの?」「外国のひと?」「おじさん?おばさん?」
「くちゃくちゃだから梳いたら?」「どうしたん?」「ブロッコリー?」
などなど、一時的な話題を提供することになるのです。
さて、なかでもよく言われるのが、「もじゃもじゃ」です。ここで、その言葉の後ろを、推しはかってみると、おおよそ、次のいつつになるのかと思います。
1.見たままの現象を、直接的に表現した
2.なんと言い表せば、得心がいくのかわからない、不思議さの追求を表現した
3.初めての出来事に対する驚きや困惑を、自分と切り離すべく、笑いとして表現した
4.対象に面することへの恥ずかしさから、「3.」と同様の表現となった
5.自分が見立てたことを言葉に変換したことに対する確信を表現した
ここから説明です。
「1.」ですが、これは、見たままを、そのとき思いつき、おそらくそうだろう、と、指し表す内容について、適切と思われる言葉を、素直に口にした、ということです。ですから、私と交流を持つことを前提としているのではなく、発話者が、自分の言葉の表現の広がりを楽しむ経験とした、と、考えることができます。
つまり、(あのひとのことを)言ってみたかった、という、ひとりの表現者の立場。
「2.」は、感情が揺れ動く事態となって、しかし、それは好奇心を生起することであり、表現される言葉は対象を適切に言い表しているか、そうだとしてもそうではないにしても、この現象の理由を追及したい。この現象をつくりだしたひとの思考を明らかにしてみたい、などという、対象との対話を求める、解明の手立てへの接近、と、考えることができます。
つまり、(あのひとのことを)知りたくなった、という、ひとりの研究者としての立場。
「3.」について、現時点での自分では処理できない事柄に遭遇して、そこから新たな問題解決を探るのではなく、一旦、自分から切り離し、感情や思考の平衡を保とうとする、現状維持への取り組み、と、とらえることができます。
つまり、(あのひとのことには)関わりたくない、といいつつ、実は、ひとりの関係者、としての立場。
「4.」は、そもそも対象と出会うこと、初対面ということへの自覚から生じる躊躇が起因となって、自分の特に感情が波立たないようにするため、自分とは相いれないと、第三者的立場を貫くはたらき、と、とらえることができます。
つまり、(あのひとは)間違っていると思う、という、ひとりの評価者としての立場。
「5.」は、対象をとらえることにおいて、自信をもって自分は適切に理解している、そう思い、その対象を言葉で表して、自分の概念の範疇のなかに位置づけることができている、しかし、それ以上に興味を置くことはない、と、とらえていると思われます。
つまり、(あのひとのことは)(このように)コメントする、と、ひとりの批評者としての立場。
もちろん、このいつつだけにまとめられるものでもないですし、ここに、ごちゃごちゃと書いた説明は、ここでの思いつき、ちょっといい感じの言い方なら仮説ですから、妥当性のあるものではありません。それに、「1.」から「5.」のどれがよくて、どれはよくない、なんてものではありません。
私の髪を見た、それを「もじゃもじゃ」と言った。
同じ出来事において、同じ対象に対する、同じ言葉であったとしても、まあ、形は同じであったとしても、そこに込められた、感覚、感情、思い、考えは、それぞれに違う、ということ。
言葉の裏側にある、これらを拾わなくては、相手と行き違ってしまうこと。
ここに思いを置きたいのです。
言葉を汲むのか、気持ちを汲むのか。
今、後者をみようとする意識が薄れている風潮を私は感じます。
よく言われる言い回しだと、「(前後を省みず)キリトラレタ」。
しかし、そう言うとき、気づかれていないのは、いや、言葉通り切り取られているのは、そのひとが言いたかった本意ではなく、そのひとの気持ち、かと。
でも、本意であろうと、気持ちであろうと、「キリトラレタ」のは、その個人の人格で、それは、そのひとが、自らの命を、自分の死の方向に運ぶ途上における、ひとりの存在者、としての行為でありますから、どこも切り取ってはだめですね。
「キリトラレタ」もですが、身も心も「キラレタ」というのも、あってはなりません。
しかし、「キル」行為を強調したメディア作品が、エンターテイメントとして、確固たる地位を築いているかのようにもてはやされているのが現状であり、たとえ、それらの作者はその後ろに別の思想を含めていたとしても、さて、そこを読み取るまでにいかず、表現だけひとり歩きして、それがひとりの存在者となる育ちにただならぬ覆いをかけているのなら、いったい、いや、それは予測可能な命の「キリトラレ(カ)タ」として、私たちは、もう、取り囲まれているのではないか。
先日、パーマをかけてもらいながら、私も美容師さんも、それなりの年齢ということで、でも、これからも、命を失うことなく、今、すべきことを、今、行っていることを、さらに更新し続けていきたい、といったような話をしました。
美容師さんと仲良く、私自身を生きる髪型を、これからも貫きたいと思います。
皆様のご健康と幸せを心よりお祈りしております。
では、また。
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