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  • 執筆者の写真Hiroyuki Notoh

「スラムダンク」コミックを読んだ感想 たぶん、その1 恋愛と友情・編

更新日:2023年5月13日

 こんにちは。

 秋ぐらいでしたっけ、「ゴールデンカムイ」の感想をあげさせていただきました。さて、今回は、「スラムダンク」の感想です。

 同一人物が友人とともに熱い押しの一手で、全31巻、段ボール1箱を送ってくれました。ので、読みました。


 んで、まあ、読んでて思うたのは、友情と恋愛の違いって、何だ、というところです。

 以下、いつも通りの勝手な考えです。


 友情と恋愛の違いは、「甘え」の違いのように思った次第です。「甘え」と言われても、んー、それって何、どういう意味、と返したくなる、曖昧な言葉ではあります。

 ついでに言うと、「友情は、緊張のある一体化」、「恋愛は、もどかしさのある一体化」ではないか、とも考えたわけです。

 こうなると、もう、私が何を言っているのか、さっぱり伝わらないと思います。


 そこで、「甘え」を具体的に考えると、「ねえ、ちょっと、私のこと、わかってよ」と、相手に求める言葉に表されるかと思います。んでですね、こういうことを言うときって、「当然、わかってくれるよね」という、確信がある、のだと思います。

 確信がある、って、どういうことでしょう。

 「このひと、私のことを、こんなところがある、こういうこと考えて生きている、こんなこと感じている、と、思っているだろうな」と考えて、このことを踏まえて、このひとに、自分の感じたことを話したり、そのときに感情を露わにしたりのとき、「そうだよね」と、肯定されると、「やっぱりそうだ、このひと、私のこと、私が思った通り、とらえている」という、自分の判断への安心が得られると考えます。

 同様に、「このひと、こういうところがある、こういうことを考えて生きている、こんなこと感じている、だろうな」と考えて、このひとに対し、「ねえ、そうでしょ、あなたそうなんでしょ」と関わったときに、「そうですよ」と肯定されると、「うん、やっぱり、このひと、私が思った通りのひとだわ」と、安心が得られますでしょう。

 この、相手への推しはかりが、ふたりのひとの間で、お互いに行われて、お互いに安心を感じること、また、「あれっ違ったか」となったときに、確認の推しはかりをして、でも、お互いに安心を更新できたなら、仲良くなれるわけです。

 この仲良し感があると、「当然、わかってくれるよね」と相手に求めますし、求められた相手も、「大丈夫、わかってるよ」と受け入れることができると思います。こういったのを双方で行う関係が、「甘え」ということか、と、私はここでは考えます。


 こう考えますと、「甘え」がふたりのひととの間にあるとき、お互いに相手を受け入れているのですから、自分の中には相手、相手の中には自分、がいる、状態が生まれます。

 これが、私の言う、「一体感」なわけです。


 それでですね、ジャンプ・コミックスのスラムダンクの第15巻の#133「責任問題」で、なんかの試合で、海南大付属に負けたとき、桜木くんは、それが自分の責任だと悩みます。その彼に、流川くんが、うぬぼれるなー、みたいな一言をぶつけます。

 ここんとこ、私としては、試合で負けたのは、チームの選手、それぞれに課題があって、チームとして一体化して頑張ろう、というところで、桜木、くよくよしていてもしゃーないやろ、お前の課題に取り組めよ、という、流川くんの励ましがあるとともに、その流川くん自身も、俺の課題に取り組んで見せる、という、自分への励ましがあるように感じます。

 つまり、私が、「友情は、緊張のある一体化」と先に言いましたのは、これのことです。桜木くんと流川くんの間には、それぞれに取り組むべき課題があって、それは、それぞれが頑張らなくっちゃいけない。励ますことはできるけども、取り組むのは、あくまで、自分、というところで、相手への責任が強く生じます。この強さを緊張と私は表現したわけです。


 んじゃ、恋愛は、というところなんですが、こちらは、ふたりでひとり、という大前提があると思います。

 恋愛は、なんでもふたりで頑張ろうね、という、「ふたりで」という、支えあいがある。この支えあいは、友情のようにお互いが独立して担う、というのではないんじゃないか。

 つまり、課題に向きあうときに、私は、このひとのために何ができるか、と考える。この向きあいは、ある課題を達成するにあたり、自分が担うのは何かが、その課題にあるのではなく、その課題をふたりで達成するために、このひとをどう支えるか、というところにあるように思うんです。

 このとき、相手を支えきれないもどかしさ、どうしても、自分の思う通りに支えきってはもらえない相手へのもどかしさ、と、そう思ってしまう自分へのもどかしさ。これらのある関係が、「恋愛は、もどかしさのある一体化」ではないか、と、私は思うんです。


 確かに、友情でも、このひとを支えるためには、私は何をしてあげたらいいか、はありはします。しかし、やはり、友情には、課題に対して、自分は何を担うか、という、相手への役に立ち方が違うように思えます。


 変わった例かもしれませんが、こんなのがそんなことなんかな、というのを書きます。


 ここにパートナー関係のふたりがいます。このふたりを仮に、ひろくんとゆきちゃん、としましょう。なんのことはない、私の名前を分割しただけです。

 ひろくんとゆきちゃんは恋愛関係です。そして、ゆきちゃんに長年の友人がいます。

 ゆきちゃんは、ひろくんとの関係や、ひろくんに対して悩んだときに、この友人に相談をします。友人は、ゆきちゃんの話を聞いて、あれこれ答えてくれます。

 ひろくんは、ゆきちゃんが友人になんだかんだと相談しているのは知っていますが、何を話しているかまでは知りません。でも、ゆきちゃんと友人とのやりとりには干渉しません。そういう友人関係はよいことだ、とも思っています。

 あるとき、ひろくんとゆきちゃんは同居を決めて、賃貸物件を探すことにしました。

 さて、このとき、このふたりは、自分たちで暮らせる間取りを考えたり、支払える家賃を考えたり、引っ越しをどうするかなどを相談したり、するでしょうが、これは、賃貸物件を探すということがふたりで達成するひとつの課題であり、その課題に向けて、ふたりともが成り立つように、お互いの生活を考えるとともに、それぞれが担う仕事といった、個人的な役割の達成も成り立つようにすることがそこに含まれます。

 ふたりで行うひとつのことだけど、互いに相手に手が出せないところがあります。

 そうすると、ふたりで支えあえるところで賃貸物件を相談する領域と、このひとが自分の役割を行えるように、このひとのために私はどうすればいいか、という、手が届ききれない相手への思いを、互いにもって、相手を支えるところで賃貸物件を相談する領域、という、ふたつの領域が生まれます。

 んで、賃貸物件をふたりでどう考えているか、私たち、こう思ってるんだけどさ、ねえ、どう思う、と、ゆきちゃんが友人に尋ねたとします。そしたら、友人は、ゆきちゃんがひろくんと考え、行おうとしていることに対して、何らかの意見をするでしょう。しかし、それ以上はしないでしょうし、それ以上はしてはならないでしょうね。一緒に住むのでも、経済活動をともにするのではないですから。

 そうすると、ゆきちゃんと友人との間で、賃貸物件を相談することは、友人にとっては、ゆきちゃんが課題を達成できるよう励ますこととなり、ゆきちゃんにとっては、友人からの意見も取り入れて、ひろくんと頑張って考える、ということとなり、お互いに行う領域は、異なる、となります。


 もひとつ、思ってみました。


 恋愛関係にあるふたりです。片方が亡くなりました。

 生きている方としては、相手に対して、なんで死んだんや、なんで置いていくんや、さみしいやないか、私ももう生きて行かれへん、といった感情をもつように思います。

 つまり、ふたりで行うひとつの課題がなくなった。課題を行うにあたって、支える相手がいなくなった。なので、自分ひとりでは課題に向かえない、やるべきことがもうなくなったという喪失感です。

 ここにあるのは、亡くなった相手と一体化しようと思えど、そうならない、引き離されるもどかしさであり、このもどかしさが、さみしさとして押し寄せる、と考えられます。

 友情関係にある者が亡くなったら、どうなんでしょう。

 相手に、なんで死んだんや、なんで置いていくんや、さみしいやないか、とは感じます、思います。私ももう生きて行かれへん、これも思うこともあるでしょうが、この次の感情、思いとして、じゃあ、私は、こいつのために何をしてやろう、と考え、こいつの死を無駄にしない、こいつが残したひとやものをどう大事にするか、という、弔う課題への強い意志、つまり、遺志を継ぐ、というところでの、こいつの思いを汲み取れているのか、と自問自答するうえで、緊張のある一体感が生まれるのではないか、と思います。

 私は、恋愛関係にあるひとが亡くなったことはありませんが、友情関係にあるひとが亡くなったことはあり、このときのことを思い返すと、こんなふうに考える次第です。


 なんだけど、両者は、対立、もしくは二分されるものではなく、ひとつの線上のどこかの位置、という感じがします。

 一体化を示す線の片方の端に「緊張」が、もう片方に「もどかしさ」が、そして、線分のどこかに、恋愛、友情、が、個人的にある。

 もうちょっと思いつきを言うと、線分の端点の「緊張」のところに「冷静」を置きます。そして、「もどかしさ」に「情熱」を並べてみます。

 そうすると、友情関係は、相手への冷静と情熱がともに起こる位置をとるんじゃないか。だから、お互いにそれぞれの課題に取り組むことができるのかと。

 これに対して、恋愛関係は、冷静に近い位置にあると情熱からは距離があるので、相手に対して、自分は冷めちゃったのかと自分を責めることもあるでしょうし、情熱の方に寄っていると、冷静さを自分に呼び戻さなくっちゃと思うこともある。

 まあ、恋愛すると、右往左往です。

 んで、さっきのひろくんとゆきちゃんだと、賃貸物件の相談で、けんかになったりなんかしたら、それも情熱だと思うと、冷静さを求めて、ゆきちゃんは友人に相談する、かと。

 まあ、こう考えると、けんかできる恋愛関係が成り立つためには、友情関係が必要とも。恋愛の相手もいるし、友人もいる、どちらも支えてくれるひとがいて、支える相手がいる、なんとまあ、幸せな話です。


 そしたら、親子はどうだ、などと考えだしたら、なんか、ごちゃごちゃしてきました。

 ので、ここらでやめます。いきなりですが。

 続きは、また、そのうち考えます。では、また。


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