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今年の年賀状の後ろにあること

  • 執筆者の写真: Hiroyuki Notoh
    Hiroyuki Notoh
  • 1月9日
  • 読了時間: 8分

 こんにちは。


 邦題として定着しているといってよいでしょうね、Antoine de Saint Exupéryによる「星の王子さま(原題: Le Petit Prince)」のXXI章に、次のような会話があります。


 - Non, dit le petit prince. Je cherche des amis. Qu’est-ce que signifie “apprivoiser”?

- C’est une chose trop oubliée, dit le renard. Ça signifie “Créer des liens…”.


 試訳としましては、次の通りです。

「違うよ、僕は友だちを探しているんだよ、と王子様は言いました。【飼いならす】って、どういうこと?(王子様はきつねに尋ねました)」

 「そのことは忘れられてばかりいるさ、ときつねは言いました。それは【絆を結ぶ】ってこと。」

                                ( )内は私の補足


 この“apprivoiser”ですが、おおよその辞書では、「飼いならす」「手なずける」といった日本語に相当するようです。

 とても以前ですが、「暮らしの手帖」で、当時、といってもいつかわからないのですが、聖路加国際病院小児科に勤務されていた細谷亮太医師が、この単語は、【慈しむ】といった意味も含まれる、と、確か、書いておられたように思います。

 この語の派生は古典ラテン語の形容詞prīvātusのようですが、私が使っている辞書では、「個人の、私的な」といったぐらいの訳しかわかりませんでした。

 手元のドイツ語訳は、ゲルマン語派生の”zähmen”で、“apprivoiser”と意味は同じです。


 私は動物を飼ったことがないですが、おそらく、愛犬や愛猫といった表現をされる方は、自分にとってかけがえのない愛おしさをその動物に感じていて、それだけに、自分とともに暮らす存在として、互いに納得できる関係を保てるよう、まだおぼつかない無邪気な幼さの段階にある者として、生活のルールを教えるように接しているのかとも思います。

 そう考えると、なるほど、「飼いならす」や「手なずける」という言葉は「私的な」「絆を結ぶ」という意味が生成される具体的な行動であり、【慈しむ】が導かれると思いました。

 先の試訳では、【絆を結ぶ】も文字通りの訳にしましたが、こちらも、「仲良くなる」や「打ち解ける」がいいかもしれませんね。


 そうすると、「誰かと仲良くなるためには、その誰かを大切にしてあげるといいんだよ」というようなことになるんでしょうね。


 ここのところを、おとなとこども、という点から考えますと、次のところでしょうか。


 おとなが、「誰かと仲良くなるためには、その誰かを大切にしてあげるといいんだよ」を行動として、こどもに表すことで、こどもは「友だち」をつくることが、どういうことか、わかるようになるのでしょうし、そのこどもがおとなになったら、今度は、こどもに、そう教えることができるひとになるんでしょう。


 「誰かと仲良くなるためには、その誰かを大切にしてあげるといいだよ」


 このつながりが、同世代から多世代へと広がると、心からの平和が訪れるのでしょうし、これを理想とは思わず、自分の身を省みたいものです。


 そういや、また、これ、いつ頃だったのか、コンビニエンスストアで、高齢者が支払いに手間どっていると、その後ろに並んでいるやんちゃそうな兄ちゃんが、ラップでしょうか、そんな感じで、焦らなくていいよ、のようなことを言ってるコマーシャルがありましたが、これも、同じことですね。


 しかし、現実は、逆で、特殊詐欺は命も奪います。


 以前、これも多分、このブログのどこかで書いたように思います。

 ひとの命を奪うということは、自分の命を自分で奪っているわけです。


 自分なんか生きていてもしかたない、どうせなら、ちょっとでもいい思いをするか、自分ばっかりじゃ癪に障るから、誰でもいいから引きずりこんでやれ、というような思いなのかしれませんが、ひとの命も自分の命も吹き消してしまう。

 何でだろうな、と、私はよく考えます。


 自分の命は自分のものだから、自由にして当たり前、というのは、どうも私は思わないんですね。今のところ、私はひとに対してすべきことはいただいていますし、求められている役割もありますし、それを行うことが楽しいし、まあ、たまにしんどいこともありますが、それでも、結果、よかったと思いますから、生きている方がいいんです。

 それに、ひとの命はひとのものともいえますが、そのひとの人生と私の人生は、どこかで交叉していますから、身体の命はそのひとのものであるとしても、精神としての命はわかちあっているようにも思いますので、そのひとの命は私の命でもあるような感じがしますね。それに、交叉していますから、優越はなく、同じ平面で生きているわけです。

 なので「ひとの命を奪うということは、自分の命を自分で奪っている」し、ひととひとの間に優越はない、と私は思うわけです。


 なんで生まれてきたんだ、どうして、自分を産んだんだ、など、親を責めるような思いも人生のどこかでは湧き起こると思います。なんだけど、生まれた意味は過去をたどっても、生まれてこなくて、自分で生みだすものだと思いますね。

 なんで生まれてきたかは、未来にわかることかもしれません。


 さて、この前、ショッピングモールに行きました。

 1歳過ぎぐらいのこどもがベビーカーに座って、親のスマホを両手でもって、おなじみのアニメを見ていました。

 たぶん、誰とどこに何をしにきているのかを知る機会はないでしょう。ないのではなく、奪われているといえましょう。

 また、しばらくしましたら、両親と来ている3歳ぐらいのこどもが、カートの上で大泣きしていましたが、どちらも知らん顔でした。

 両親は、ひょっとしたら、泣いているのに応えると、気まま我がままを受け入れて、自分勝手なこどもになると思っているのか、どちらかがあやしてくれるのを待っているのか、と思いました。

 そのうち、こどもは自分がなぜ泣いているのかわからなくなるでしょうし、自分の思いや考え、感じていることを言葉にする機会を失っていくでしょう。それに、自分を受けとめてくれるひとがいるということも知らないひとになるのかもしれません。

 これも、そういったことを奪われてしまっているともいえますでしょう。


 1歳過ぎのこどもがアニメを見ていましたが、アニメを見ていると時間は経ちますから、アニメに自分の時間、すなわち、命を奪われているわけです。自分が見たいと親にせがんだとしても、そういう対象があるということを親から学んだのですから、親がこどもに、命の使い方をそう教えたのです。

 【飼いならす】ことを受け入れる立場に自分があると、素直に信じる育ちです。

 3歳ぐらいのこどもも、自分の素直な思い、考え、感情を伝えても、誰もそれに応えてはくれない、どうしようもない。親は自分を「無力」であるよう【飼いならす】存在なのだ、そう学んでいるわけです。


 この子たちは、どういうおとなになるのだろうと、私は心配です。


 【慈しむ】ことを、人生のどこかで、誰かに学ぶことがなければ、「ひとの命を奪うということは、自分の命を自分で奪っている」ことに気づきもせず、自分の優越へ、尽きぬ欲望へ自分を駆り立てることが日常となる生き方になりはしないか。


 話は変わりますが、最近、国を代表するひとたちは自身の考えをSNSで発信しています。SNSは公的なものなのか、私的なものなのか。

 これって効果的な「プロパガンダ」ではないか。かつてナチスが行った情報操作をもっとそうっと浸透させて、ひとを【飼いならす】よう引導を渡しているのではないか。そう私は懸念しています。


 もっと、自分が置かれている場を、自分の感覚をもって気づき、自分の命を自分で育み、ひとを【慈しむ】学びを、こどもに覚えてほしい、と、思います。


 こんなことを考えていて、今年の年賀状はこんな感じです。


 いつもありがとうございます。昨年もお世話になりました。心より感謝申し上げます。

 ちょっと大きなくくりではありますが、学ぶ、ということはとても大切と思っています。ここで私が言う学びは、あれっ、これ不思議、ねぇねぇ、何、なぜ、どうして、教えてと、ひとに尋ねたりあれこれと調べたり、そうして、ひとまず、わかったということが楽しい、と思える、このひとつづきの行いのことです。

 昨年、もうすぐみっつになろう、こどもが、母親と遊びに出かけたところの土の中から、青銅色を含む薄く丸い金属を発見しました。光ってもいませんし、目立ちもしませんのに、差異を見つけました。これは何だろう、とっても気になったのでしょう。握りしめて、こういうときの祖父へ。受けとると、ルーペを出し、喜々と研磨計画を語っていました。

 すぐに答えが見つからない発見は、自分もひともわくわくできる学びに誘います。

 同じ頃、医院の待合にぼやんと座っていたら、ゲーム機を握りしめて、受付を親に任せ、座る場所も誘われ、黙々と両親指を動かす学齢期が数名。顔認証が不要だからでもなく。

 もったいない。身体で生きる世界には、秘められた摂理が散りばめた謎ばかりなのに。

 さて、今や、こどもではなく、次の世代を育てるおとなにこそ、学びが必要かと。

 それでも希望をもって、隣にいてくださる方々のご健康とご多幸を、心よりお祈りさせていただきます。


 私が学童期からお願いしている美容師さんのお孫さんが、お母さんと公園に遊びにいったようです。その公園は、どうも古くは何かの施設があったそうで、そこを掘り起こして整備したとかで、たぶん、それで、錆びた古銭が出てきたのだろうと。ちょうど、私がパーマをかけてもらっているときに、やってきて、まあ、こんな真っ黒な金属を見つけたもんだと、おとながよってたかって感心して、それで美容師さんがルーペを出してきたんで、それっ、おとながみんなで見て、あれこれ言うて、ほなら、錆びを落としてみよう、と美容師さんが意気込んだ話です。


 今回も長々とお読みくださり、ありがとうございました。

 
 
 

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